免責ケース(3)(4) ~「一時的な理性欠如」「持続的な理性欠如」の場合~
続いて「一時的な理性欠如」の場合はどうだろうか。
ストローソンによるとこの場合「彼は彼自身ではなかったのだ」「最近の彼は、極度のストレスに晒され続けている」「行為していたときの彼は催眠術によって暗示をかけられていた」といった言明がなされることになる。
ここで理性が欠如しているといえるのは、考慮に入れるべき事項を考慮できていないと考えられるからで、一時的なのは、その要因が最近のストレスや催眠術が、人格の不連続をもたらしたことにあると思われるからだ。
注意が必要なのは、この場合に「人格」と呼んでいるのは、第二章で定義したような意味(道徳範囲に含まれる資格という意味)ではないということだ。ここでは行為者の持続する行動傾向などをもたらす、その人の記憶や日常的な性格を指すものとして理解してほしい。
また次章で詳しく説明するが、不連続というのは、人の認識に区別を与える。つまり人格が連続していないということは、二つの時点に同一の人格として認識されない、ほぼ別の人格をもっていると判断されることを意味する。極度のストレスに晒されていることで通常状態ではないと認められる場合など、ここで問題となっているのはその人の行動傾向が一定していない、持続性がないということに尽きる。
責任の対象がその人の意志のあり方にあるのは、将来のリスクを減少させることを目的としているというのはすでに説明したとおりだが、責任という概念は対象となる人を通して未来に影響を与えることを目的としているのだから、その人の行動傾向が過去現在から未来にまたがって、ある程度一定していることを前提としている。
となればそうした意志のあり方の持続性が否定されると、責任を負わせようとしても未来の行動に影響を与えることができず、意味がないということになる。これは責任を正当化する根拠となる、未来の他行為可能性がないのだということを意味している(前の行為の記憶がないなら、他行為もなにもない)。その人をいくら非難しても意味がないのだから、理性的な人であればあるほど、その人を非難しようという気持ちは失せることになるだろう。
二つの時点で人格が区別される場合、前の人格で責任が欠如した行為をおこなったとしても、後の人格でも責任が欠如していると推論することはできない。免責ケース①②の場合とは異なり、その人が自発的に新たな責任を負うことで行動傾向を改善することを期待できるわけではないが、かといって後の人格が責任を負っていないと決めつけることもできない。そのため彼に責任を負わせようと非難することには意味がないが、かといって社会になんらかの責任が発生するわけでもない。この点に「持続的な理性欠如」の場合との最大の違いがあるといえるだろう。
それでは最後に「持続的な理性欠如」の場合を見てみよう。
「彼はほんの子どもにすぎない」「彼は統合失調症を患っていて、治る見込みがない」「彼はまったく異常な精神構造をしていた」「彼のあのふるまいは、脅迫的衝動に基づくものとしか言いようがない」といった言明をする場合だ。
責任は記憶など脳内の状態に影響を与えることで、将来の行動を変えようとするものだが、脳が十分に成熟していなかったり、病によって理性による行動のコントロールが困難になっているならば、そもそも責任という概念の目的自体が果たせない。これは責任を負う能力が、欠如しているということを意味する。
「一時的な理性欠如」の場合、過去の行動傾向が未来の行動傾向に持続しないため、無責任さが問題とはならなかった。しかし「持続的な理性欠如」の場合には、過去の行動傾向がそのまま未来にもち越される確率が高い。そのため放置することにはリスクがあり、当人に責任を負わせることができない代わりに、客観的目的のため、社会の側に対処する責任が生じる。
具体的には、子どもの場合には物事の分別がつくようになるまで保護者による監督を受けたり、あるいは病や異常な精神構造によるものだったなら、他者とのかかわりが減るように、ある程度は社会からの隔離というものも必要となるかもしれない。
更生の見込みのない凶悪犯罪者というものも、この「持続的な理性欠如」のケースに当てはまる。
この場合非難や罰によって責任を負わせようとすることが無意味となるので、社会からの強制排除が合理的になりうる。死刑というのは、社会からの強制排除にほかならない。そのため死刑は、罰とは異なる社会作用だといえる。
このように理性欠如が持続的なものとみなされれば、責任を負うことを期待されなくなる代わりに、隔離によって自由が制限されたり、最悪は死刑といったような、道徳範囲からの除外さえも社会的に正当化されうる。そのため非難や罰を逃れるために道徳的無能力を装ったとしても、むしろ自身の主観的目的にとっては逆効果になりかねないから、注意が必要だ。
もし責任というものを、非難や罰によって不利益を与えられる根拠になるものだと考えるなら、道徳的無能力の人が非難や罰を与えられないという事実を観察することで、道徳的無能力とみなされることは利益になることだと勘違いし、自身の利益になる行為を見誤る危険性がある。
たとえば刑事裁判で被告が精神障害があるとして、その弁護人が無罪を主張したという場合を考えてみる。そうした場面だけを切り取って、精神障害があることを理由に罪を逃れて得をするのはおかしいという人がいる。だが本当に精神障害が誰かを害する原因になったと社会にみなされた場合には、その人は非難や罰を免れる代わりに、精神病院の閉鎖病棟で期限のない拘束を受けるかもしれない。それは決して、利益を得たとはいえないだろう。
本稿で論じていることには、当たり前だろうと思われることが多いかもしれない。だがこうして当たり前のことがなぜそうなっているのか、その理由を改めて考えることには、安易な判断で本質を見誤り、自身の利益に反する判断をしてしまう危険性を下げることにも役立つ。
道徳は社会を成立させる前提にあり、人びとの行動は道徳やそのための仕組みによって説明できることも多い。こうして長々と論じていることも、決して無駄にはならないはずだ。




