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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第九章 自由意志と責任を意味づける (2)方法論
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責任は理不尽か ~応報感情による制裁~

 批評家の小浜逸郎がいうには、責任の概念はその本質に、理不尽さや不条理性といったものがあるのだという。彼は例として、親が5分間ほどぼんやりとしている間に、子どもがベランダから落ちてしまったケースを挙げている。

 彼によると、ぼんやりとしていたのは、必ずしも理性的な自由意志によって、意識的におこなわれたものではない。そのせいで子どもがベランダから落ちてしまうなど、本人にはまったくの予想外な出来事であって、偶然としかいいようがない。それでもぼーっとしていた親の責任が問われるのは、もともと責任に不条理性が含まれているからなのだという(*1)。


*1 小浜逸郎『「責任」はだれにあるのか』PHP新書、2005年、171、181~182頁。


 たしかに子どもが危ないと知っていれば、普通の親はぼんやりとなんかしていなかっただろう。望んで引き起こした結果でないのに責任を引き受けなければならないというのは、少しばかり酷に思える。少なくとも子どもが怪我をしたり亡くなったりして後悔している親を、むやみやたらに責めるべきではないだろう。

 だが責任が理不尽なものだったら困るのもたしかだ。理不尽とは道理に合わないということだが、道理に合わないものをだれかに要求しようとしても、もし「知ったこっちゃない」と突っぱねられるようなことがあったら、悪意志をもつ人に責任を負わせようとする正当性がなくなってしまう(説得できない)。責任が理不尽なものだと認めることは、責任の効果を弱めることにつながる。


 この問題への対処は、すでに説明したことの繰り返しが多くなる。だが小浜のこうした考え方が新書としてまとめられ出版されていることは、責任をめぐる一般的認識が、いかに責任概念をめぐる混乱を世の中にもたらしているかの証拠でもある。そしてこうした問題を解消することが、ここまで説明してきた本章の考え方が、いかに有用かの証明にもなるだろう。


 さて小浜のいう責任の理不尽さは、いったいどこから来るのだろう。

 人がなにかについて理不尽だと思うのは、自分の意志ではどうしようもないことによって不利益を被っていると感じるときだ。だが不利益を与えてくることが多いのは、非難や罰といった責任の追及であって(前述したように、不利益のない非難や罰というものもありえなくはないが)、責任そのものではない。それにもし自分の意志のあり方しだいで未来が変わる可能性があるなら、自分の意志ではどうしようもないことではないはずだ。


 たしかにそのときは本人にとってはまったくの偶然的な出来事で、そのような結果が生じる可能性など、思いつくことさえできなかったかもしれない。しかしその結果が生じたことで、子どもがベランダに近寄っているときに、目を離してぼんやりしていると危ないということを、知ることができたはずだ。

 そのおかげで次からは、自分の子どもがベランダに近づかないように気をつけることができるし、ほかの誰かの子どもがベランダに近いところにいて、その子の親が目を離しているようなら、代わりに危なくないように子どもの動きを目で追い、危険を親に知らせるということもできるようになるかもしれない。

 どんな偶然的な出来事も、事後的にでも原因が判明したのなら、それは必然となる。把握できる原因可能性の数が増えれば、それだけ不確定な未来にも対応しやすくなる。たとえ当時は悪意志ではなかった意志のあり方も、ほかのようにもできたのではないかと考え、その後にそれ以上によい経路があるのだと気づければ、もとの意志のあり方は悪意志に変わる。そこで責任を負うことによって、さらによい経路が選択され、悪意志は改善されて再び善意志となる。

 これが自発的におこなえるのならば、非難の必要はないだろう。非難されないのは、責任を負わないからではない。責任を負っているからこそ、非難される必要はないのだ。

 責任を負ってもとの意志よりもさらによい経路が選択できるようになったのは、不運な事故の原因が判明したことで知識が増え、選択できる経路の数が増えたからだ。よって責任は、自分の意志によってコントロール可能な未来に対して負うものだといえる。

 ゆえにやはり人は、自分の意志によってどうにかできる範囲でしか責任を負わない。このように考えれば、責任は決して理不尽なものではないということがわかるだろう。


 責任が理不尽なものに思えるのは、過去に生じた特定の結果に責任を対応させ、その結果に伴って生じる感情の収拾を目的として、結果から因果をさかのぼった行為者に責任(という名の不利益)を負わせただけで終わりにしようとするからだ。実際責任の押しつけ合いだとか、トカゲのしっぽ切りといった事象は、このことに由来すると思われる。

 責任を取るという言葉は、ただたんに不利益を受けることを表すものではない。「責任を取る」は英語で言うとtake responsibilityだが、これは問題などが発生したときに、その責任が自分にあることを認め、対策を取る[講じる]ことであり、辞任または辞職の意味ではない(*2)。

 この言葉が日本で辞任や辞職することを意味することがあるのはおそらく、責任が不利益を与えられることそのものを目的としたものだと誤解されているためだ。たとえ当事者が責任を取って(その立場にいるには能力的に不適任だとして)辞めたとしても、後任者が責任を負わない限り(当然ながら、後任者を非難しろという意味ではない)、再発防止という責任の本当の目的は果たされない。不利益を与えることそのものを目的にすると、このようなその後のことに、どうしても無頓着になりやすくなる。


*2 「責任を取る」英辞郎 on the WEB、http//eow.alc.co.jp/search?q=責任を取る、2021年7月8日閲覧。


 そもそも実際に生じる結果はつねに、予期しないことが起こりうる、偶然的なものにすぎない。責任の追及もそんな偶然的なものにもとづいていたのでは、たんなる不運な災いにしかならないだろう(実際にカントは、罰をたんなる災いだといっているわけだけども*3)。だがたんなる災いには、いかなる意味も生じえない。


*3 カント『実践理性批判1』(中山訳)110頁。


 人が応報感情にもとづいてだれかを非難するには、どうしても目に見える現象として現れた行為に、つまりすでに過去のものとなった行為に反応せざるをえない。そのため一見すると、過去のできごとをどうにかしようとして、責任を追及しているようにも思える。

 たしかに「誰々に責任がある、だから制裁した」で溜飲を下げて終わっているような事例も、現実では少なくない。しかしそれでは結局、なにがしたかったのかがわからない。だれかに責任を負わせることで感情を収拾させたとして、そのこと自体にはいったい、どんな意味があるというのだろう。

 もし感情がおさまらないことが不都合な状態だということを理由に、感情を収拾させることに意味があると考えるとすると、そもそもそのような感情がわいてこないようにできていた方が、人間にとってずっと都合がよかったということになる。だとすると、なぜそのような機能が、人間に備わっているのだろうか。たんに感情を収めるための報復では、なにも変わらない。責任の根拠が過去の行為そのものにあるのだとすると、どうしても人間の目的とのつじつまが合わなくなるのだ。


 応報感情で重要なのは、応報感情を実際に発揮して報復をおこなうことではなく、他者に不利益を与えるようなおこないをすると、だれかの応報感情を刺激してリスクが高まるかもしれないと人びとに予期させ、抑止効果とすることにほかならない。ならば報復が抑止にさほど役立たないと考えられる事情がある場合には、そのままその感情を収めて別の方法を模索することに方針転換したとしても、特に問題はないはずだ。

 結局応報感情による非難や罰は、社会上のリスクを減らすためにおこなわれる正当な非難や罰を、近似したものでしかない。正当な非難や罰に形式的に一致することがあるだけであって、つねに一致するわけではない。感情にもとづく行為はたんなる形式的な行為でしかないので、目的に役立つ場合もあれば、まったく役立たないこともあるし、場合によっては逆効果ということさえあるだろう。


 それに対して理性的な非難が、すでに過去のものとなった行為を根拠にすることでやっていることは、「その行為と整合的になるように考えれば、その人は現在も悪意志をもっているだろう」と疑われる、つまり正当な目的と過去の行為が矛盾していることから、現在でも正当な目的を志向していないと蓋然的(確率的)に推論されるので、責任を負わせることでその意志を善意志に変化させ、再び類似の状況になったときに正しく行為できるようにすることで、社会上のリスクを減らし、未来に備えようということだ。

 このように結果ではなく、意志のあり方に対応させることで、責任を偶然的な事象に左右されづらい、安定したものにできる。

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