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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第九章 自由意志と責任を意味づける (2)方法論
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行為と責任

 責任の所在の決め方の話をする前に、責任の所在を決める際に間違いを犯さないための注意点がある。


 第六章では、道徳性の根拠は結果にあるのではなく、意志のあり方にあるのだという話をした。それ以外に、行為そのものにその根拠を求めるような人がいるが、ここにも誤りのもとがある。

 このような考え方について、第六章で引用したアンスコムの言(善い行為がもたらす悪い帰結には責任がないなど)とも似ているが(人格→行為→帰結の因果系列において、前二つにかかわるのか、あと二つにかかわるのかという違いはある)、ヒュームは以下のように指摘する。

「行為自体はその人(人格)に固定されることがなく、したがって、もし行為がよいものであっても、その人の名誉を高めることはできないし、悪いものであっても、悪名を高めるということはあり得ない。行為それ自体は非難されるべきものであることもあるだろう。道徳と宗教のあらゆる規則に反していることもあるかもしれない。しかし、その人格には行為に対する責任はない。つまり、その人格の中に持続的に存在するもの、ないし恒常的に存在するものから、行為が生じているのではなく、またその種のものを行為の後に[人格に]残すわけでもないので、この理由では、人格は罰や復讐の対象にはなり得ないのである」(*1)

 行為そのものとは違い、意志はその人の中に持続する。持続するものは未来にも影響を与えるため道徳によって矯正される必要があるのに対して、行為そのものはすでに過去のものになっているため、それ自体に責任を負わせても意味がない。


*1 ヒューム『人間本性論第2巻』158~159頁。()内および[]内は訳者による。


 行為そのものに道徳的評価を与えようとすることの問題点は、ほかにもある。

 評価対象とすべき意志とは、確定した経路、すなわち一連の手段と目的の連鎖のことだ。第四章の経路図ではうまく表現できていないが、複数の手段を組み合わせて一つの目的を達成する場合もあることを考えれば、意志と行為がつねに一対一で対応しているとは限らず、一つの意志から複数の行為が生じることも十分ありうる。この事実からは、道徳性の評価を行為から直接おこなうのではなく、悪意志の推論という間接的な仕方でおこなうのは、一見すると悪くないおこないであっても、間違った目的のための準備行為としておこなわれている可能性があるからでもあるということがわかる。

 ミルが紹介しているジョン・リュウェリン・デイヴィス牧師の例を借りると、専制君主から逃れるために敵が海に飛び込んだときに、よりひどい苦痛を与えるためだけに、専制君主が溺れている敵を助け出した場合を想定しよう。

 溺れている人を助け出すという行為だけを取り出すと善いおこないのようにみえるが、この専制君主のおこなった救出が「道徳的に正しい行為」だとは、はっきりいうことはできない。ここから「行為の道徳性は完全に意図に左右される」(*2)ということがわかる。つまり肝要なのは、その行為がなにを目的として(より厳密にはどのような帰結が予想されて)おこなわれたものなのかということだ。

 このように形式的な行為によって善悪を決めようとすると、悪意志の見落としが発生しやすくなる。そうすると未然に防止できたかもしれない被害の防止に、失敗することになるかもしれない。


*2 ミル「功利主義」(1864年版原註)『功利主義論集』347~348頁。


 とはいえ行為とは違って、その人の意志のあり方は、外から見えるようなものではない。ではどうするかというと、これについてもヒュームは、以下のように述べている。

「明らかに、われわれがなんらかの行為を称賛するとき、考慮するのは行為を生み出した動機だけであり、行為を考察するのは、精神や気質のうちの、ある原理の(しるし)ないし表示としてである。外に現れた振る舞いに値打ちがあるのではない。道徳的性質を見出すには内面を覗かなければならない。これは直接にはなし得ない。それゆえわれわれは、外に現れた標として行為に注意を向ける」(*3)

 このことは称賛だけではなく、非難する場合にも当てはまる。具体的には、誰かの行為が正当な目的とあきらかに矛盾する(正当な目的を志向しているなら、そのような行為はしないはず)ならば、その人が正当な目的を志向していないと判断するという、帰謬法的な論理を使うことによって、悪意志を推論することができる。行為一つを取り出して評価しようとすると、偶然的な誤りを犯しただけという可能性もあるが、複数の言動を総合して推論することにより、ある程度の確率をもって判断することができるだろう。


*3 ヒューム『人間本性論第3巻』31頁。


 功利主義や義務論は人の行為ばかりに注意を向けていて、行為者自身の性格を無視しているというのは、人格が優れているかどうかを重視する徳倫理学の言い分だ。

 だがその徳倫理学にしても、それでは行動指針としては役立たないと批判されることがある。「優しさ」という徳を身につけようと思っても、どのようにしたら優しい人間になれるのかがわからないのでは、優しくなりようがない。ではやはり、行為の評価を先に定める必要があるのだろうか。しかしヒュームの言い分では、それぞれの行為そのものは、持続性がないため、道徳的評価の対象にならない。

 こうした食い違いは、評価者が誰なのかということにずれがあるために起こる。つまり行為者(本人)が自身の道徳について評価すべきなのは自身の行為(が正当な目的に対して適切なのか)だし、行為者以外(他者)の立場から行為者(本人)を道徳的に評価するなら、その対象は行為の原因可能性たる人格(の意志のあり方と性格)でなければならない。

 なお厳密には、意志と性格は異なる。行為の直接の原因となるのは意志だが、性格は快不快の感情がどのように条件づけられているかを表し、条件づけられた快不快の感情は意志に影響を与える(快不快と意志の関係は次章参照)。

 自身に責任を負わせようとするなら、それぞれの行為が道徳的に適切なのかを評価していくことになるし、他者に責任を負わせるかどうかを判断するには、その行為からその人の意志のあり方を推論して判断していくしかない。道徳的評価の対象を行為とするのか人格(意志)にするのかという問題はこのように、結局は評価主体の違いから生じるそれぞれの観点が混同されたことによって生じる、みかけの対立でしかない。


 道徳的評価の対象は、行為でも帰結でもなく、その人の意志のあり方(どのような目的を志向し、その目的に対して行為が適切なのか、その帰結が他者を害する可能性を認識できたか)だ。それゆえ善い意志から生じた行為は善い行為であり、その結果が善い結果ならば、その行為は称賛の対象になる。同様に悪い意志から生じた行為は悪い行為であり、その結果が悪い結果ならば、非難の対象となる。

 他方善い意志から悪い結果が生じたとしてもその行為は非難されないし、悪い意志から善い結果が生じてもその行為は称賛されない。行為はその場限りだが、その人の意志のあり方は未来の行為と結果に影響し、称賛や非難はその対象となる人の意志のあり方に影響を与えることで、未来の結果に影響を与えようとするものだからだ。

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