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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第九章 自由意志と責任を意味づける (2)方法論
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免責条件総説

 善悪の評価対象が意志のあり方によるのは前節で述べたとおりだが、たとえ意志のあり方が悪いものだったとしても、もし責任を負わせることで改善が期待できないなら、責任を負わせようといくら非難したり罰したりしても、将来の行動傾向に影響を与えることができず、意味がない。その場合その人は免責され、その人に対する非難や罰の正当性は失われる。


 具体的に人が免責されるのは、どのような場合だろうか。

 哲学者のピーター・F・ストローソンは、他者から害を与えられたことに対する怒りが抑えられる場合について、第一グループと第二グループに分け、それぞれを下位二グループに、計四種に分類した。

 第一グループは問題となる行為の要因について「彼にはそうするつもりはなかった」「彼は気がつかないままだった」「そのときの彼は分かっていなかった」といった言い回しを用いる場合と、「彼はそうせざるをえなかった」という言い回しを使ってから「彼は押されたのだ」「彼にはそうしなければいけない事情があった」「彼にはそれしか方法がなかった」「彼にはほかの選択肢が残されていなかった」などの言い回しをする場合が該当する。

 第二グループは「彼は彼自身ではなかったのだ」「最近の彼は、極度のストレスに晒され続けている」「行為していたときの彼は催眠術によって暗示をかけられていた」といった言明をする場合と、「彼はほんの子どもにすぎない」「彼は統合失調症を患っていて、治る見込みがない」「彼はまったく異常な精神構造をしていた」「彼のあのふるまいは、脅迫的衝動に基づくものとしか言いようがない」といった言明をする場合にあたる(*1)。


*1 P・F・ストローソン著、法野谷俊哉訳「自由と怒り」[1962年]『自由と行為の哲学』42~45頁。


 こうした分類は、責任の追及が免除される条件にも、そのまま当てはまる。

 ストローソンはそれぞれの下位グループの各言明に共通する性質がなにかということについては言及していないが、第一グループは前半が「一時的な無知」後半が「主観的および客観的目的との論理必然性」(それ以外の手段をとると目的との間に矛盾をきたす、あるいは手段が欠如しているためにすでに目的との間に矛盾がきたしている)が行為の要因になっている。第二グループに関しては、前半が性格(人格)の不連続による「一時的な理性欠如」、後半を道徳的無能力による「持続的な理性欠如」と名づけることができるだろう。

 第一グループの「一時的な無知」「目的との論理必然性」と、第二グループの「一時的な理性欠如」「持続的な理性欠如」とでは、その性質が異なっている。

 ストローソンは次のように説明するが、ここで「反応的態度」とは害をこうむった人やよいことをされた人がもつ態度・反応であり、感謝、怒り、許し、愛、精神的苦痛がそれにあたるとされている(*2)。

 第一グループは「行為者に関して、『通常の反応的態度を向けるのはどの観点からいっても不適切である』と考えるように促しはしないが、行為者が与えた害に関しては、『通常の反応的態度の中の特定のもの[例えば、怒り]を向けるのは不適切である』と考えるように促しはする。さらに、この種の弁明と状況は、行為者に関して、『彼は完全な責任能力を有する人ではない』と見るように促しはしないが、与えた害に関して、『行為者には部分的な責任しかなかった(あるいは、まったく責任がなかった)』と見るように促す」(*3)

 対して第二グループの場合は「行為者に対して通常の反応的態度をとることを、行為が為された時点において抑制するように(あるいは、すべての時点において抑制するように)促す……行為者その人を通常とは異なる見方で、すなわち、その人と同じように行為した人物をふつう見るときの見方とは異なった見方で、見るように促される」(*4)

 第一グループは責任を負うことに意味があるが、第二グループではそもそも責任を負わせようとすることが意味をなさない場合にあたるといえるだろう。しかし第一グループでは本人が自発的に責任を負うことが期待できるので、他者が当人に責任を負わせようとする非難や罰は、必ずしも必要とされない。

 第一グループでは放っておいても当人が自分で責任を負うが、第二グループでは悪意志に持続性がなかったり責任を負う能力がないため、将来のリスクを減少させるための責任を負わせることが、そもそもできない。そのため人は、どちらのグループの場合だったとしても、非難や罰を与えようという気が失せることになる。


*2 ストローソン「自由と怒り」『自由と行為の哲学』38頁。

*3 同、43頁。

*4 同、45頁。


 興味深いのは、ストローソンが分類しているのは理性で考えてどうするべきかという規範にもとづくものではなく、感謝や怒りといった「反応的態度」、すなわち前理性的な感情に影響を与える場合の分類だということだ。実際のわれわれの傾向が、こうした条件を満たすかどうかに左右されている。

 にもかかわらずこうした分類は、われわれの責任に関する理論に完全に整合的だ。このことはわれわれの理論が、われわれが長い進化の歴史から得てきた道徳感情(直観)に、完全に合致しているということを示している。そしてわれわれの感情と理性は、まさしく同じ目的に役立つからこそ、同様に発達してきたということでもある。


 第一グループと第二グループの違いは新たに責任を負うことができるかどうかで、どちらも非難や罰を与えることには意味がないという点では共通している。こうした基準による分類が可能となるのは、責任を結果や行為ではなく、悪意志を矯正するものとして、最善の経路を選択する義務として定義したからこそだといえるだろう。

 もしこれがよくなされるように「ひとが行為について道徳的責任をもつのは、その行為が称賛や非難に値するときに限る」(*5)というような、行為を対象にした称賛や非難といった反応に注目した定義を採用していたなら、なぜこのような分類が可能なのかについて、理解するのは困難だったに違いない。今引用したのはジョセフ・K・キャンベルがストローソンの標準説と呼んで採用した定義だが、わたしの見たところ、ストローソンは先の分類を行為や称賛や非難といった反応的態度それ自体ではなく、行為者に注目してその違いを説明している。

意志のあり方が責任にとって重要とするわれわれの理論は、われわれの日常的な反応によって裏づけられている。


*5 キャンベル『現代哲学のキーコンセプト 自由意志』35頁。

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