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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第九章 自由意志と責任を意味づける (1)概念論
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自由意志論争の誤謬

「共感」や「責任」という言葉もそうだったが、複数概念の間に因果や包含、類似などの関係が見出されると、それらの異なる概念が混同され、同じ言葉に複数の意味がもたせられるということがある。そしてしばしば、それらの異なる意味があたかも同じ意味であるかのような見かけを装い、概念のすり替えが起こる。すると人びとの意思疎通が阻害されたり、誤解を生むといった弊害が生じる。


 自由意志という言葉も同様の憂き目に遭ってきたのはあきらかで、一つの言葉にこれだけ(おそらく、まだまだあるだろう)の意味をもたせられてきたということが、これらの概念をめぐる議論を混乱させてきた要因であることは間違いない。実際自由意志を責任と結びつける考え方の多くは、前節における⑤外的原因から独立にはたらく自由意志、⑥未来の類似の状況に置いてほかのようにもできること、⑦過去になされた行為に対して他のようにもできたことという、三つの自由意志が混同されることで生じたものと思われる。

 たとえば責任を非難や罰を受けることと同一視して③他者からの強制を受けない自由意志を妨げるものと考える人が、③を守るために、⑤を否定することで⑥⑦も同時に否定できたと考え、責任を否定しようとすることがある(決定論を肯定し自由意志を否定する、いわゆるハード決定論者のパターン)。

 反対に道徳的責任を肯定するために⑤を肯定しようとする人(自由意志を肯定して決定論を否定する、いわゆるリバタリアンのパターン)も、本来は⑥を肯定しなければいけないのに⑤を肯定することで満足するという、責任を否定したい人たちと同じ、誤った前提のもとに議論している。実際に行為者因果説の代表的論者であるロデリック・M・チザムも、「もしも原因が当の男に責任のない自体や出来事であったならば、われわれが『彼の行為』と誤って呼んできたものに対しても、その男には責任がないことになる」(*1)と、道徳的責任には行為に影響を与えるような先行原因がないことを必要とする考えを、まるで自明であるかのように前提している。


*1 ロデリック・M.チザム著、柏端達也訳「人間の自由と自己」[1964年]青山拓央・柏端達也監修『心の謎から心の科学へ 自由意志 スキナー/デネット/リベット』岩波書店、2020年、229頁。


 これらの議論では、多義(語意曖昧)の虚偽、あるいは媒介概念の詭弁と呼ばれるような論理的誤りが犯されている。つまりここでは「自由がなければ責任はない。自由がない。よって責任はない」という論理が用いられているわけだが、この第一前提と第二前提で用いられている「自由」の意味が異なる(前者では⑥、後者では⑤や⑦)ため、途中で概念のすり替えが生じ、結論の論証に失敗しているわけだ。

 にもかかわらず脳神経科学のような最先端科学によって、人間の意志が意志決定前に発生する原因の影響を受けているといったようなことが指摘されると、自由意志の否定、ひいては責任の否定がもっともらしく聞こえてしまう。

 ⑦が用いられるのは、人間の思考(ワーキングメモリー)の容量が限られているために、認知資源を節約するためという、人間が進化の過程で見つけた工夫によるものでもある。そして過去と未来を繋ぐものとして用いられるものであるため、その過去と未来の関係によって混同が起こる。本当の問題は未来の他行為可能性なのに、過去の他行為可能性と混同する原因はこの点にある。


 現代の、特に責任にかかわる自由意志を論じている哲学者たちの多くが、こうした間違いに気づかないまま、見当違いの議論を繰り広げている。そうした哲学者たちには、ハリー・フランクファート(*2)や、ピーター・ヴァン・インワーゲン(*3)の議論を道徳的責任について応用したデイヴィッド・ワイダーカー(*4)も含まれる。

 哲学者は論理を用いてなにかをあきらかにしようとするが、論理はその前提を正しいものとしたあとにかかわるものなので、前提そのものの正当性にはかかわらない。そのためもし前提に誤りがあった場合、どれだけ正確で緻密な議論を組み立てようとも、論理はその誤りを教えてくれないのだ。


*2 ハリー・G・フランクファート著、三ツ野陽介訳「選択可能性と道徳的責任」[1969年]『自由と行為の哲学』81~98頁。

*3 ピーター・ヴァン・インワーゲン著、小池翔一訳「自由意志と決定論の両立不可能性」[1975年]『自由と行為の哲学』129~153頁。

*4 ジョセフ・K.キャンベル著、高崎将平訳『現代哲学のキーコンセプト 自由意志』岩波書店、2019年[2011年]、70~71頁。


 今一度先入観を排して、なぜ先行原因に影響されない自由意志が、道徳的責任の正当性に要求されるのかと、考えてみてほしい。そのような理由は、どこにも見つからないはずだ。なぜなら道徳的責任の正当性に必要な自由意志と、先行原因のない自由意志とは、まったく異なる別の概念だから。



 ところでフランクファートは次のように述べる。

「なぜわれわれは意志の自由を欲求し、なぜそれを動物に帰属させようとはしないのか、その点を理解できるようにするということが、意志の自由についてのどんな理論にとっても基本的ではあるが本質的な条件となる」(*5)


*5 ハリー・G・フランクファート著、近藤智彦訳「意志の自由と人格という概念」『自由と行為の哲学』120頁。


 この疑問に答えるためには、責任に必要な自由が未来の他行為可能性であり、道徳的責任というものが悪意志の改善を目的としたものだという、二つの定義が必要となる。

 動物は言語的コミュニケーションがとれないため、論理による同意(その結果としての意見の客観化)ができず、道徳的な責任を負わせることができない。ここに意志の自由が責任の必要条件だとする考え方が加わることで、後件肯定にはなるが、動物には自由意志がない(だから責任を負わせられない)という考え方が生じる(自由意志がなければ責任はない。動物には責任がない。よって動物には自由意志がない)。

 たしかに動物に対しても罰を与えること(オペラント条件づけ)によって、その行動傾向を変化させることは可能だろう。しかし正当な目的を志向するためには自己強制が必要(特定の目的をもつよう外的に強制することはできない)ことは、第五章においてカントの言葉を引用する形ですでに述べた。そのため責任を負わせるには、罰では足りない。前章で指摘したとおりそれは他律的なものであって、他者を道徳範囲に含めたために起こった行動傾向の変化(目的を変更したことによる変化)ではないため、道徳的な責任を負ったとはいえない。

 動物は非難や罰を与えられても、道徳範囲の狭さというその本質的な理由を言語によって他者から教えられたり、推論したりすることで認識できるようには見えないため、責任を負うことを期待できない。責任を負う能力を人間はもっているのにほかの動物はもっていないことを、人びとは経験的に推測していて、そのため責任を正当化する(責任を意味あるものにする)意志の自由も、人間と違って動物はもっていないのだろうと推測した。

 そして責任の正当化は社会を成り立たせるために必須なことを肌感覚で感じているため、人びとは人間一般に意志の自由があることを否定したくないという思いをもつのだろう。

 以上が、フランクファートの疑問への回答となる。


 さて本章ではここまで、錯綜する自由意志論争から、道徳的責任の概念を救い出すことを第一の目的として議論してきた。その目的はある程度達せられたのではないだろうか。

 しかしまだ、もしこの世界が決定論的にできていたとしたら、<未来における>われわれの行為もすでに決定されているのだから、道徳的責任に必要な意味での自由意志さえも認められないのではないかという疑問は残っているように思われる。

 そのあたりの問題に関しては、人間の思考方法が密接にかかわってくるため、次章に譲りたい。先に挙げたインワーゲンは、決定論が正しければ自由意志を認めることができないことを、帰結論証と呼ばれる論証によって示したが、そのあたりをどう考えるべきなのかも、そこで示すことができるだろう。


 とりあえず本章では、今まで道徳的責任に必要と思われていた自由意志と、実際に道徳的責任に必要な自由意志とでは、異なる概念なのだということが示せたということをもって、ひとまずの成果としたい。

 道徳的責任に必要と思われる自由意志の定義を確立できたので、本章の残りの部分では責任の所在(責任を誰に負わせるべきか)をどのようにして決めたらいいのかということについて、技術的な話をしていくことにしよう。

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