真に有用な責任概念 ~未来の類似の状況における他行為可能性~
責任概念が有用なものとして正当化されるには、決してそのときにほかの行為が選択できたという意味での選択可能性の存在は必要とされず、原因可能性としての悪意志が改善される可能性だけで足りる。ならば前節のデネットの引用で示唆されていたように、<再び類似の状況に置かれた際に、以前と異なる(よりよい)手段をとることで、同じような(悪い)結果を避けられる可能性がある>のなら、責任は十分に正当化される。
その可能性の存在を説明するために、選択可能意志という概念が用いられるにすぎない。つまりもしまた同じような状況になったら、異なる行動ができるはずだろうということをいう際に、その仮定(また同じような状況になったら)の状況を、すなわち類似の状況とはどのような状況のことなのかを一から説明して相手に伝えるという、状況説明の労力を節約するために、当時の状況が再利用されるというだけのことにすぎない。行為の選択という理念を利用して「そのときにほかのようにできたはずだ」ということができれば、そうした仮定を伝える労力は簡単で済む。
そのため責任の根拠となるものは、本来なら<未来の他行為可能性>なのだが、それを<過去の他行為可能性>に取り違え、その過去の他行為可能性が責任が正当化される根拠となるかのように想定し、過去の他行為可能性を否定することで責任が否定されると考えるのは、単純に誤謬に陥っていることはあきらかだ。
誰かに責任があると主張する人の真意は結局、その人が責任を負っていれば不都合な帰結は避けられたはずだから、再び類似の状況になったときには、その人が異なる行動をすることで同じ結果を避けるべきだということ、あるいは未来の予測される事象に対する責任、つまり「~に対しては誰々の責任でおこなうべきだ」といわれるような責任(非難を伴わない責任)であれば、その人のさらなる責任を負った意志(から生じる行動)が、もっとも懸念される問題の解決に寄与できるはずだということにほかならない。
そのため責任を負っても問題を解決する能力や権限をもたない人には、そもそも責任を負うべき理由がない。ゆえに本人の意志によって(本人の意志を十分な原因として、という意味)取り除けるリスクを取り除くのは本人の責任だが、それができないなら社会の責任になる。
選択可能意志を否定することで責任概念を否定したがっている人は、もしかすると非難を伴わない責任があるということを見落としているのかもしれない。不完全義務に分類される責任は非難や罰によって実現しようとされるべきではないが、目的がなるべく促進されるような不完全義務をみずから果たそうとするのも、責任にもとづいておこなわれる。
またあとで例としてあげられるような、子どもがベランダから落ちた親の場合は、(これも後で述べるが)当時は予期不可能だった偶然的な出来事に関しては非難されるべきではないが、その出来事を通じて自身を成長させ、その後の行動をよりよいものにするということも、自発的に責任を負った状態といえるだろう。重要なのは、責任の有無と非難に値するかどうかは、別問題だということだ。
よって責任を負わせようとしておこなう非難や罰を、無用なものとして否定したいなら、選択可能意志の存在を否定するのではなく、非難や罰以上に悪意志の矯正に効果的な手段が存在することを示す必要がある。すでに説明したように、責任の追及には他律的で形式的な道徳理解をさせてしまいやすいというデメリットがあるため、責任を負わせるために非難や罰より有用な手段が存在する余地ならば、もしかしたらいつかは見つかるかもしれない。
選択可能意志が物理的に可能でなければ道徳の基盤が崩壊するという考え方には、ある考えが前提にあるように思える。それはまず世界を正しく認識するという理論理性の問題があって、その上に正しく行動するという実践理性の問題があるのだという考え方だ。
だから選択可能意志の存在が理論的に確認できなければ、つまり世界の認識いかんによっては、人間の目的がもつ実践的な正当性が失われるように思われる。しかしそうではなく、まず人間の目的に役立つものに正当性があるのであって、そのための手段として世界を正しく認識することが求められるのだと考えた方がずっといい。
たしかに道徳的信念をどこかの時点で得るような出来事(信念の原因)があったのだとすると、道徳的な行為もそうした外的原因によって完全に規定されているように見え、あらゆる経験的なものから独立した自由、つまり完全に外的な原因を排除するという意味での自由、ひいては完全な自律というものはないように思える。
だとしても道徳的な行為が、以前の行為が間違っていたことに責任を感じ、考え方を変えたことが原因になって生じた行為だったとしたなら、もしそれがあらかじめそれ以前の外的原因によって決まっていたものだったとして、なにかまずいことでもあるのだろうか。少なくとも過去の行為の原因が見いだされることは、未来の行為が過去の行為と違ったものになることを妨げたりはしない。
人が自由でありたいと願うのはあくまで、目的を達成するために必要な最善の手段をとることを、邪魔されたくないと思うからだ。人が因果関係に支配されていることを自由でないと嘆くのは、人が自由に空を飛んだり、裸で溶岩の中を泳いでも無傷でいることができないと嘆くようなものだ。この世界では因果法則が許す限りで、その時点における最善の手段を実行していくほかになく、そのために可能な手段を知るためのものとして、選択可能意志の概念が必要とされる。
もし誰かに身体を拘束されるようなことがあったり、特定の言論をした場合には国家権力によって刑罰を与えるといわれたなら、わたしの自由を奪うなと抗議することは、奪われている自由が回復された場合にしようとしている行為が道徳に反するものでない限り、もちろん正当な抗議といえるだろう。なぜなら、相手の良心に訴えたり、世論に影響を与えるなどして、抗議をしたことが原因となって、よりよい手段をとることのできる可能性が出てくるからだ。
選択可能意志を否定したとして、われわれに利益がもたらされるようなことはない。むしろ選択可能意志は、道徳を実現するための手段として、つまりわれわれの行為に影響を及ぼす原因となって、われわれがよりよい手段を実行する手助けをしてくれる。
このことのいったいなにが問題で、なにに不満を抱くようなことがあるだろうか。




