選択可能意志の否定は責任の否定を含意するか ~行為の原因としての道徳概念~
前節ではほかの経路が選択可能であることを責任の根拠とするべきとしたが、この選択可能意志の存在を否定することで、道徳や責任の根拠をも否定しようとする考え方がある。
もし人間のあらゆる行動が因果的に決定されているなら、人間の行動は善い行為も悪い行為もすべてあらかじめ決まっていたということになり(これを決定論という)、ほかの経路の善し悪しにかかわらず、ほかの選択は不可能だったと考えられる。その場合には、選択可能意志が人間に備わっているということはできない。そのためどのような悪行も本人にはどうしようもなかったのだから、行為の正しさを決める道徳はなんの役にも立たないし、責任を負わせても意味がない、という考え方だ。
責任を問うためには人が因果関係に支配されていないという意味での自由意志が必要だという考え方は、たとえばカントにあり、以下のように主張される。
「超越論的な自由とは、あらゆる経験的なものから独立しているということ、自然一般から独立しているということと考えねばならない……この外的な感覚能力の対象としても自然から独立した本来的な自由だけが、アプリオリに実践的なものである。この自由が存在しなければ、いかなる道徳法則も、道徳法則に基づいて[行為の主体に]責任を問うことも、まったく不可能なのである」(*1)
*1 カント『実践理性批判2』81頁。[]内は邦訳者の中山による補足。
環境が人の行為を決めているのだから責任を問うべきではないという考え方も、選択可能意志を否定することで責任を否定しようとするものだといえるだろう。たとえばロバート・オウエンによるものとして、ミルが紹介している次のような主張がある。
「犯罪者が自らの性格を作り出したのではなく、教育や取り囲んでいた環境が人を犯罪者にしたのであり、それらについてその人は責任がないのだから、処罰はとにかく不正義である」(*2)
どのような行為も、自身の目的を促進する手段としておこなうものなので、目的に反する行為を指す悪をおこなっていると思いながら行為する者はいない。どんなときも本人の中では最善の行為だと思って行動しているため、よりよい経路があることを知らなかっただけということは、十分ありうる話だろう。そうなったのが環境のせいだとすると、本人の意志によってそうなったわけではないため、責任を問えないということになるかもしれない。
*2 J・S・ミル「功利主義」『功利主義論集』332頁。
ほかにも人間の脳が外部環境からの入力を出力に変えるだけのメカニズムにすぎないことをもって、選択可能意志を否定しようとする考え方もある。
環境からの刺激を入力として、人間のメカニズムで処理された結果、一つの行為が出力される。人間がそうするようにできているなら、そこに選択の余地はない。科学哲学者の戸田山和久によると、世界全体が因果的に決まっているという意味での決定論が間違いだとしても、われわれがおおむね決定論的な計算メカニズムでありさえすれば、自由(選択可能意志)と決定論の問題は残る。人間が外界からの刺激と内部状態で動くメカニズムだとすると「わたしがしたこと」に見えるものは、実は「わたしに起こったこと」にすぎない(*3)。
そうやって人の意志によらずに行為が決まるとしたら、人間には選択可能意志というものがないのではないか。認知科学や脳科学の発展で人間のメカニズムはあきらかになってきており、選択可能意志は科学の力で否定されつつある。実際にオペラント条件づけ、すなわち快不快の印による手段選択にしても、快不快も結局は過去のなにかしらの経験という自然によってもたらされた受動的な入力によって生じたものにすぎず、そうした快不快に影響された行為も結局は、快不快の印という人間のメカニズムによって、特定の行為が強制されたものと考えることができる。理性を用いた手段選択でさえ、理性という仕組みが備わっていることによって、その手段を選択せざるをえない状態にされたといえるかもしれない。
*3 戸田山和久『哲学入門』ちくま新書、2014年、296~298頁。
だがこういった考え方の前提には、選択可能意志や責任といった概念がなんのためにあるのかに関する、根本的な無理解があるように思われる。
責任は、負わせて終わりというものではない。ここで見落とされているのは、選択可能意志や責任、道徳といった概念そのものが原因になりうるということだ。人間の行為が外的な原因とメカニズムで一つに決まるとするなら、原因となりうる道徳的概念(各種道徳原則、共感、自由、選択、義務、責任、非難、罰など)の目的として考えられるのは、道徳的な信念や責任の認識という原因(入力)をさらに追加することによって、悪意志を矯正し、その人の未来の行為(出力)を変えることだろう。
選択可能意志と責任の対象は、過去の行為ではない。ダニエル・デネットが言うように、いくら過去の行為に対してほかのようにもできたのではないかと問われたところで「私はほかのことなんてやっていない。そしてやってしまったことを帳消しにするには遅すぎる……大事なことは、将来、似たような状況に置かれたら間違いなく違う仕方でやれるように取り計らう、ということだ」(*4)
この場合、責任は行動の傾向に変化を与える原因として、因果法則にしたがって作用するものなので、その場その場での主体の無条件的な自由選択は、必ずしも必要とされない。
*4 ダニエル・デネット『自由の余地』208~209頁。
たしかに、いくら複数の選択肢があったところで、この世界に形となって現れるのは実際に選択されたものだけであるため、<そのときに>ほかの選択をすることが可能だったのかは、知るよしもない。そう考えれば、自由意志なんてものが本当にあるのかと疑問に思うことには、もっともな理由がある。
だが先ほどいじめっ子の屁理屈を否定したときのように、選択可能意志は責任を負わせるべきものを確認するため、つまり責任回避や責任転嫁を防ぐためにある理念であって、責任を発生させる自然的物理的原因というわけではない。その根拠は有用性にあるため、たとえ物理現象としての自由意志(選択可能意志)が否定されても、責任は否定されない。
選択可能意志とは空間上に位置をもつ実体を表すものではなく、能力につけられた名前にすぎない。そして能力とは、なにかに帰属された因果法則につけられた名前にほかならない。
ヒュームが指摘したように、原因と結果が時間的空間的に離れて見出される場合には、その間をよく調べてみると諸原因の連鎖で繋がれていることが見出されるということはよくある(*5)。同じように人間の外的環境と行為の間にある因果関係も、いつかは特定されるということもあるかもしれない。
しかし本稿で何度も述べているように、行為とその原因との間にある因果関係が、必ずしも一対一でつながるとは限らない。もしその人の無数の経験が原因となって一つの行為を生み出すのだとしたら、日常的にあらゆる行為の原因をすべて特定して生活するというのは、とてつもない困難を伴い現実的ではない。
もしそうした無数の原因のいくつかが人間の内部状態に変化を及ぼし、その状態を表すものとして選択可能意志というものを想定しているのだとしたら、どうだろう。もしそうした内部状態を行為の原因として考えることで認知資源を節約しているとしたら、選択可能意志の想定は人間の思考におけるテクニックの一種だともいえる。
*5 ヒューム『人間本性論第1巻』(木曾訳)95頁。
因果法則というものも結局は、人が世界を解釈し、未来を予測するために使っているものでしかない。そうだとするとたとえ科学が人間の細かなメカニズムをあきらかにしたところで、人が日常生活において、人間の行為の原因として、選択可能意志という言葉で表される概念を必要とすることには変わりないだろう。
もし細かなメカニズムによって選択可能意志を否定したいのなら、たんにそのメカニズムの存在を示すだけではなく、そちらを用いて世界を考えた方が、予測や道徳に正確さや容易さの点で有利になることを示す必要がある。
いかなる概念も、人間が世界を理解する手段でしかない。そしてどんな概念も、人間の頭の中にしか存在しない。猫がたんなる原子あるいは量子が集まったものにすぎないと科学であきらかになったからといって、猫という概念がフィクションや幻想だとされ、猫などというものはこの世界に存在しないということにはならない。それと同じで一定のメカニズムの集まりによって実現される機能に、選択可能意志という概念を適用するのは、実用上十分に正当性があるし、そうするべきことだ。
したがってたとえ選択可能意志が物理的には見いだせない、人間の頭の中にしかない概念だったとしても、そのことをもってたんなるフィクションや幻想だとして否定する理由にはならない。否定されるように思うのは「自由がなければ責任がない」という言葉をただ形式的に捉えているだけで、その命題が示す(なんの役に立つかという意味での)意味を無視しているからだろう。
科学がこれから先なにをあきらかにしたとしても、人間が目的をもって活動しているという事実を脅かすことができない以上、そのための手段として人間が概念を用いているのは変わりようがないし、その一種である選択可能意志の概念を否定する意味など生じようがない。なぜなら選択可能意志や責任という概念も結局は、人間のメカニズムの一部として、ひいてはこの世界の因果系列の一つの項として存在し、それによって実現される人間の内部状態を自由意志(選択可能意志)という概念で表現しているにすぎないからだ。
一方道徳はむしろ、人の行為が外的原因に影響されていることを、必要としているのだという考え方もある。このことは人の行為が外的原因に一切影響されないとすると、どうなるかということを考えてみればいい。
ヒュームの考えでは、自由は必然に対立するものであるため、偶然と同じものだとされる。そしてあらゆる人間の法は報酬と罰に基礎を置いていて「これらの動機が精神に影響を及ぼし、よき行為を生み出すとともに悪しき行為を防ぐ」ことが根本原理として想定されているのだから、この報酬と罰が原因となって人間に影響を与えることが前提になっていると考えられる。自由を先行原因のないたんなる偶然とする説によれば、人間は自分が計画しあらかじめ考えた行為に対しても、きわめて偶然で不慮の行為に対するのと同じく、責任が問われないことになる(*6)。
たしかに外的原因の影響なしに、自由意志という一つの内的原因から異なる行為が生じうるのだとすると、他者の視点から行為を予測することは不可能となり、自由意志がどう発動するかはたんなる偶然に任せるほかなくなる。意志が確定した後ならば、そこから生じた行為は必然性を帯びるが、意志が未確定の状態も含めて考えると、その意志を一つの状態に確定するのに十分な原因を特定することができなくなり、
そうした偶然的な意志から生じるあらゆる行為は、同様に偶然的なものとなる。外的原因に影響されない意志から生じた行為はいかなる外的原因の影響も受けないのだから、たとえ責任があることを理由に非難したり罰したとしても、その人の行為にはまったく影響を与えることができず、なんの意味もないということになるだろう。責任を負わせる手段がない以上は、責任を負わせることに意味があるかないかを論じること自体にも、なんの意味もない。
よって人が因果関係の影響から完全に脱しているという意味で自由である限り、道徳や責任を意味あるものとして正当化できない。責任を正当化するには、人が因果関係に縛られていることが必要とされる。ヒュームの言葉の文脈上の意図は自由意志を否定することだが、これは決定論的世界観では人に責任を問えなくなるという考え方に対しても、非常に強力かつ明瞭な反証となるように思われる。
*6 ヒューム『人間本性論第2巻』(石川・中釜・伊勢訳)154、158頁。
したがってたとえすべての行為が外的な原因に影響されていたとしても、責任を問うことは可能だと考えられる。人は因果関係に支配されているからこそ責任を負い、因果関係を通じて最善の帰結を目指して行為しなければならない。
決定論が正しいかはともかくとしても、人の行為にほかの(外的な)原因があることをもって、責任を否定することはできない。責任を問うために、われわれは不動の第一動者である必要はないし、リバタリアン的な形而上学的自由意志も必要ないのだ。




