因果系列を責任の根拠とすることの問題点
前節の中国人被験者の多くがおこなったであろう思考を、順番にたどっていこう。
まずはスミス氏のぬれ衣被害という結果から、因果系列を判事の有罪判決という原因にたどるが、その判事の行動は暴動の予測というさらなる原因に影響された結果だということに気がつく。判事はほかのようにはできなかった(暴動を防ぐにはそれ以外の方法がなかった)のだから、冤罪の原因をつくったのは暴動を起こそうとした人たちだということになる。彼らが暴動を起こそうとしていなかったなら、スミス氏は冤罪で投獄されずに済んだのだ。
だがそれならなぜ、殺人事件の犯人に責任があるとはいわないのだろう?
暴動を起こそうとした人たちは、殺人被害者の無念を晴らすため、遺族の悲しみと怒りに深い同情を覚えたために、あるいは二度と自分たちの仲間を殺そうと思う敵対民族の人間が現れないように、やむをえず暴動を起こそうとしたのかもしれない。彼らだって、犯人が殺人なんてしなければ、そのようなことをする必要はなかったのだ。
このような指摘をするともしかしたら、すでに起きてしまった殺人事件は防げないが、これから起こる暴動は防げる、と反論する人が出てくるかもしれない。だから判事は有罪判決を下さねばならず、それを防ぐには暴動を起こそうとした人たちに責任を負わさねばならないのだ、と。
しかしだとしても、どのみち冤罪で無実の人が投獄されてから暴動を起こそうとした人たちに責任を負わせるなら、有罪判決を下した上で責任を(暴動を起こそうとした人たちではなく)殺人犯に負わせることも可能なはずだろう。
このように、原因を特定して責任を負わせるという方法では、責任者を一人に特定するのが難しくなる。
因果系列は無限に続いているのに、中国人被験者たちはいったいどこで系列を区切って、責任の所在を決めているのか。なぜ殺人事件の犯人に責任があるといわなかったのかというとおそらく、問題文の中に登場人物として出てきていなかったからだろうと思われる。つまりどこまでを問題領域として捉えるかという、純粋に主観的相対的偶然的な要素によって、責任の所在が変わってしまうということだ。
ここには責任の所在について意見を一致させるための、客観的基準が欠けている。すると自分のそのときそのときの都合に合わせて、柔軟に責任を割り当てることによって、責任の所在を恣意的に操作するようなことも可能になる。たとえば学校や職場でのいじめ行為がとがめられた際に、「いじめられる方に原因がある(から、悪いのはいじめられる人間だ)」と抗弁することによって、責任を回避しようとする人が現れることになる。
だがほかの原因に影響されたというだけでは、責任を免れる理由にはならない。
カントは自由意志を認識するために、次のように問うた。
「あなたの君主がある誠実な人物を、何かでっちあげの口実を使って死刑にしたいと考えているとしましょう。そしてあなたに、この誠実な人物を死刑にするような偽証を行うように求めていて、偽証しなければすぐに死刑にするぞと、あなたを脅したとしましょう。そのときあなたは、自分の命への愛がどれほど強くても、その愛を克服することが[すなわち偽証を拒むことが]できると思いますか」
これに対してカントは「その人が自分の生命への愛を克服するかどうかは、本人にも確言できないかもしれない。しかし偽証を拒むことが可能であることは、その人も躊躇せずに認めるだろう」と言う(*1)。
自分の命の危険がある場合には、選択の余地がなかったといいたくなるが、カントはそうはいわない。もちろん本稿の理論においては、自分の主観的目的に反するような選択をしなければいけないような義務はないので、道徳的には偽証を拒むことが必須というわけではないし、この極端な事例ではたしかに不可抗力といってもいいだろう。
だがここで重要なのは、なんらかの選択をする理由があること、なんらかの選択をさせるようなほかの原因に影響されていることが必ずしも、ほかの選択が可能なことを否定することにはならない、したがって責任の免除につながるとは限らないということだ。いじめの原因となるなんらかの理由があるからといって、いじめをしなければならないというわけではない。
*1 カント『実践理性批判1』87~88頁。[]内は邦訳者の中山による言い換え。
一般に自由意志という言葉は、第一原因となる能力とも、行為を選択する能力ともいわれるが、ここで肯定された自由意志は、前者ではなく、後者となる。つまり最初の原因であることが否定されたとしても、選択可能な余地はなお残る。
もし責任の根拠となる自由意志を第一原因となる能力と理解して、因果系列だけを追うようなやり方では、きりがなくなる。どんな人も因果の網の目の中で生きている以上、いかなる原因からの影響も受けずに行為するというのは、現実的に考えて不可能だろう。
そのため原因になったことを責任の根拠とするなら、いくらでも責任転嫁、責任回避が可能となる。ひたすら原因をたどっていった末に、最終的にすべてを世界の創造者たる神(もしくは宇宙のはじまりとなったビッグバン)のせいにしてしまえばいいのだから。これでは悪意志を矯正するという責任の役割が、十分に果たせなくなる。
これに対してもし責任の根拠を選択可能意志にもたせるならば「いじめた人間は、いじめをしないということが可能だったにもかかわらず、いじめ行為をした。したがっていじめ行為の責任は、いじめた人間にある」ということができる。ここでいういじめをしないことが可能だったとは、そのための能力に不足がなく、かついじめ行為をしなくともいじめた人間の不利益にはならなかったと考えられるため、必然的な目的である主観的目的にも反せずにそうできたに違いないということだ。
結局のところほかのようにもできた(選択可能)とは、現実に選択されたよりもよりよい経路が存在するということにほかならない。言い換えれば最善の経路を選択していない意志(悪意志)を矯正するために責任が用いられ、最善の経路を選択することはその人の不利益にならない(必然的な目的である主観的目的に反しない)ため、その人にとってほかの選択が可能だったということになる。ここでいう「可能」とは、すでに定義した「可能性」――矛盾がないことを指す。なにが矛盾しないのかというと、その選択(行為)が主観的目的に矛盾しないということだ。
たしかに自由意志は、しばしば特定の因果系列のきっかけとなる行為をする能力と理解され、不都合な結果の原因となる行為をしたことを理由に、非難されるということは多い。前節で述べたように古代ギリシャでも同様の考え方をしていただろうことを思えば、進化の途上で自然選択されてきた傾向なのだろうと推測される。
つまり原因となる行為をした人を責めることで、その人は今後同様の行為をしづらくなるわけだから、それによって同様の悪い結果が引き起こされにくくなったことで、われわれの先祖の生存確率が高まったということなのだろう。その経験が遺伝的な傾向としてわれわれに備わっていて、原因を特定して非難するという形式的な反応が起こりやすくなった。
だがこの方法では、考慮されるのが(主観的に把握している範囲での)第一原因なのかどうかのみなので、ほかから影響を受けたことを誰かに指摘されるだけで、第一原因ではなくなったと判断され、容易に免責される。すると各主体において本当にほかにやりようがなかったのかという、各主体の意志のあり方が検証されづらくなる。形式的に因果系列を追っていくことにより、悪意志の見逃しが発生しやすくなる。
このように考えることで、責任の意義を肯定するために、わざわざ人間に外的原因の影響を受けずに行為できる能力があると想定する必要はなくなる。意志の経路選択のあり方(選択可能意志)を責任の根拠とするなら、ほかからの影響を気にする必要はなく、ただほかの経路を選択した場合の、主観的目的および客観的目的との関係だけを考えればいい。




