西洋人と東洋人の責任観に違いはあるか
なにか問題が起きたときに誰が責任を負えばいいのか、すなわち責任の所在はどのようにして決めればいいのかという問題に関して、人びとがもっている基準は、どうにも一貫していないように思われる。そのことを示すものとして、次のような調査研究がある。
カイピン・ペン、ジョン・ドリス、スティーヴン・スティッチ、ショーン・ニコルズがおこなったこの実験では、アメリカ人と中国人の被験者に「判事たちと暴徒」と呼ばれる道徳ジレンマが示される。それは次のようなものだった。
「街で殺人事件が起きた。
ある民族集団の何者かが犯人であるとわかっている……街では長年、異民族間の激しい衝突と暴動が繰り返されてきたため、警察署長と判事は、ただちに犯人を特定し、罰しなければ、街の住人たちが暴動を起こし、犯人と同じ民族集団の成員の所有物に多大な損害を与え、相当な数の死傷者が出ると知っている
……警察署長と判事はジレンマに直面している。暴動を防ぐために、その民族集団の一員である無実のスミス氏にぬれ衣を着せ、有罪を言い渡し刑務所に入れるか、あくまで真犯人を捜して、異民族敵視の暴動が発生する状況を許し、真犯人が捕まるまで暴動の阻止に全力を尽くすか
……警察署長と判事は暴動を防ぐために、無実のスミス氏にぬれ衣を着せ、有罪判決を言い渡し、刑務所に入れることを決意する。その結果、暴動は防がれ、相当数の人が死傷する事態は免れる」
アメリカ人の被験者は、警察署長と判事の行為は道徳的に間違っていて、彼らはそのために罰せられるべきだと考える傾向が強かった。それに対して中国人の被験者は、暴動を防ぐために無実の人を投獄したことを非難することが比較的少なく、その上で無実の人に罪を着せた責任は、暴動を起こす可能性があった人たちにあると考える傾向が強かったという。このことは彼らが、西洋の個人主義的な人たちよりも、より集団のレベルに責任を負わせたのだということを示唆している(*1)。
*1 John M. Dris and Alexandra Plakias, "How to Argue about Disagreement: Evaluative Diversity and Moral Realism,"Walter Sinnott-Armstrong, ed., Moral Psychology, vol.2: The Cognitive Science of Morality:Intuition and Diversity, Cambridge:The Mit Press, 2007, pp.323-324.
以下の邦訳と解説を参考にしている。ジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ』103~105頁。ジレンマの文章には原文にない改行を適宜追加している。
同様の事例はトロッコ問題の初出論文とされているフットの論文にて「次のような例を中心に論争が激化した」として紹介されていて、この例に類するものとしてトロッコ問題が紹介されていることを踏まえると、「判事たちと暴徒」の歴史はトロッコ問題よりも古いらしいことがわかる。 Philippa Foot, "The Problem of Abortion and the Doctrine of the Double Effect", p.2.
どうやら文化の違いによって、責任が誰にあるかに関する考え方には、違いが出てくるようだ。もちろん同じ文化の人びとの間でも、考えが異なることは十分ありえる。あくまで傾向の問題にすぎない。しかしこの傾向の違いは、いったいどこから来るのだろうか。
まず考えられるのは、ペンらが事前に想定していたように、個人主義と集団主義の違いがある。彼らによると「東洋の相互依存または集団主義の自己概念は、グループの所属および社会的役割に関連して人を理解する」ため「(「グループの利益のために」個人の利益を犠牲にする)功利主義的便宜に寛容」になる(*2)。
中国人被験者には、ぬれ衣を着せられる人がいても社会の安定性には影響ないが、暴動で多数の死傷者が出る事態は、社会の安定性が大きく損なわれると考えた人が多かったということかもしれない。では死者の数が問題なのだろうか。だとしてもなぜアメリカ人被験者の多くは冤罪阻止を優先したのか。功利主義は、英米思想から生まれた考え方だ。その影響を受けているとすると、やはり暴動阻止の方が優先されそうなものだが。
*2 John M. Dris and Alexandra Plakias, "How to Argue about Disagreement: Evaluative Diversity and Moral Realism,"Moral Psychology, vol.2, p.323.
わたしも東アジア人の一人ではあるので、中国人被験者の多くがなぜこのように考えたのかは、ある程度は想像がつく。
まずありうる帰結として、誰も冤罪で投獄はされないが暴動で多数の死傷者が出るか、暴動による死傷者はいないが冤罪で投獄される人がいるかのどちらかとなる。死者数でいえば後者の方が少ないから、後者の方を選択するべきとなる。これはフィリッパ・フットが考えたように(*3)、暴走したトロッコの進路を五人の作業員がいる線路から、一人しかいない線路に切り替えるようなものだ。
その上で判事は暴動を防ぐためにやむをえず、すなわち不可抗力によって有罪判決を下したのだから、判事の責任にするのは酷だろうと考える。そもそも暴動さえ起きないのならば、無実の人を有罪にする必要はなかったのだ。だから悪いのは、暴動を起こしていたかもしれない人たちだろう。よって無実の人が投獄されたことに対する責任は、暴動を起こそうとした人たちにある。
*3 前々注*1を参照。
だがこの理屈は、広島・長崎への原爆投下を「それによって戦争終結を早め、何百万人もの命を救った」として正当化するのと似ている。ジョシュア・グリーンは「大多数のアメリカ人は、無実の人に故意に罪を着せるという考えに、見返りはどうであれぞっとする」(*4)と言うが、決して東洋人に特有で、西洋人には理解しがたい考え方というわけではないように思う。
*4 グリーン『モラル・トライブズ』104頁。
功利主義者であるグリーンは、トロッコ問題の歩道橋パターンで橋から人を突き落とすことについて、次のように述べている。
「あなたが、橋から人を突き落とすことが間違っていると感じないのなら、あなたはどこかおかしい。私も、それは間違っていると感じる。そして、自分が現実に人を突き落とせるのか疑問に思うし、自分がそういう人間であることを嬉しく思う。さらに、現実の世界では、突き落とさないのが正しい決定であるのはほぼ確実だろう。しかし、誰かが、まったくの誠意でもって、この行為が五人の命を救うのだと確信し、もっとよい選択肢は他にないと確信して、意志を奮い立たせて男を歩道橋から突き落とすなら、私はこの行為を支持するだろう。ただし、これを実行に移すことを選択した人を疑わしく思うことはあるかもしれない」(*5)
人を橋から突き落とす人の感じ方は間違っているが、その行為は支持する。しかしその人の人格は疑う。なんと煮え切らない回答だろうか。そうすることを正しいと感じずに、自発的になにかをするなど不可能だ。正しくふるまったのに、人として間違っているとは。このあたりはあきらかに、なんらかの数量を基準に善悪を考えることの、限界が示されているように思われる。
*5 グリーン『モラル・トライブズ』333~334頁。
おそらくは「判事たちと暴徒」において東洋人的とされている考え方が、道徳範囲の狭さからくる思考傾向として人間一般のベースにあって(無実の人に罪を着せることをよしとするのは、自分がその立場であってもよしとするのかにまで考えが至っていない、つまり共感が欠如しているからにほかならない)、そうした傾向を是正するために後から生じた個人主義的な宗教や啓蒙思想の影響によって異なる考え方をするようになった人が、比較的西洋に多いのだと考えるのが自然だろう。
中国人被験者の多くが見せたような考え方には、現にそう考える人が多い、自然な考え方だという意味で、比較的人間の思考としての普遍性がある。ここでは因果系列にもとづいて責任の所在が決められているが、ギリシャ語のαιτια(aitia)が「責任」とも「原因」とも訳される(*6)ということからは、原因と責任を同一視する考え方が、一神教が普及するより前の時代に由来し、西洋人と東アジア人で本来共通していた考え方だったのではないかと思わされる。
したがってこの考え方から検討することが、人びとの責任に対する認識を理解するのに役立つはずだ。
*6 アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』193頁。邦訳者の渡辺/立花による訳註から。




