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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第九章 自由意志と責任を意味づける (1)概念論
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さまざまな自由意志(暫定的な区別)

 前節のような責任の定義を用いると、次のような理屈も成り立つように思われる。

 責任ある人は、最善の経路を選択しようとする。本人が最善と信じる経路を選択しているなら、ほかの経路(最善でない経路)を選択しようとすることは、責任を負っていることと矛盾する。したがって責任ある人は、経路に関して選択の余地がない(自由がない)。このことは一見すると、自由がなければ責任がないとする一般的な考えと矛盾しているのではないだろうか。


 この場合は責任の根拠を自由意志に求める考え方を、よりよい経路が存在する(ほかのようにもできた)なら、新たに責任を負わせることで、よりよい経路を選択させて悪意志を矯正することを目的としたものと解すればいい。

 カント的な自由意志理解ならば、最善でない経路が選択された意志はそもそも自由な状態ではないということになるが、言い換えれば自由ならば責任を負っているといえるし、責任を負っていれば自由なのだといってもいい。自由には責任が伴うという言葉は結局、自由に行為できる人はつねに、正しい(最善経路の)意志で行為する義務があるといっているにすぎない。


 ダニエル・デネットが紹介しているルターの以下の逸話は、そうした状態を表しているものだと考えられる。「ルターはこう言った。『ここに私は立つ。私にはほかのことはできない』。ルターは、自分はほかのようにはできないと主張したわけである。つまり、彼の良心が、自分が改宗することを不可能にしていると主張したのだ……われわれは、あるひとがほかのようにはできなかったという理由で、その行為について彼を非難あるいは称賛することを差し控えたりはしない。ルターがどれをしていたにせよ、彼は責任を逃れようとはしていなかったのである」(*1)

 ほかのようにできたからではなく、それ以上によい経路がありえないと確信して行為しているからこそ、責任をもって行動しているといえるし、外的原因を行為の理由としていないという点で自由であり、自律しているということができる。


*1 ダニエル・デネット『自由の余地』194~195頁。強調はデネットによる。

 ちなみにこのルターの台詞はニーチェも引用していて、邦訳者の中山によるとルターが1521年のヴォルムス帝国議会で語ったとされる言葉だとのこと。ニーチェ著、中山元訳『道徳の系譜学』光文社古典新訳文庫、2009年[1887年]、291頁、344頁(訳注61)。


 外的原因を行為の理由としていないということと、その行為に外的原因がないということは、もちろん異なる。そのため前者を根拠に自由だと主張するのは詭弁に聞こえる人がいるかもしれないが、実際にその通りだと思う。なのでこれを最終的な結論にするつもりはない。


 自由意志と責任のかかわりについてはもう少し先で詳しい議論をおこなうつもりだが、その前に「誰が責任を負うべきなのか」という問題を考えたい。つまり責任の所在を決める根拠となる基準をどう設定するかということだが、そのためにもいったん多義的な自由という概念を、おおざっぱにでも分類しておきたい。詳細な分類については、後で改めておこなう。

 また本章で自由意志について論じる際には、あくまで道徳的責任にかかわる自由意志のみを扱い、自由意志がいわゆる決定論と両立するかという問題については、次章で扱うことにしたい。したがって本章で決定論に言及することがあったとしても、あくまで道徳的責任とのかかわりに限った話になる。


 ではまずカント的な意味で自由であるとは、すでに述べたように、自律していること、すなわち最善の経路を選択していることを指す。

 他方ほかのようにもできた(いわゆる他行為可能性)とは、実際に選択した経路よりもさらによい経路を選択できたはずだということだ。主観的な範囲に限るなら、人は少なくとも自分にとってより悪い選択をしたいとは思わないものだから、悪い方向への他行為可能性は考える必要がない。だがそれぞれの行為への価値評価をニュートラルにするなら、単純に思いつく手段候補の選択肢が複数ある状況だったことを、ほかのようにもできたということもある。

 自由であることとほかのようにもできた(行為を複数の中から選択できた)ことはしばしば同一視されるものの、厳密には近いようで異なる概念だ。というのも、自由なのにほかのようにできない(これ以上よい方法が思いつかない、あるいは単純にほかの方法が思いつかない)ということは、十分に考えられるのだから。


 なのでここからはほかの方法が思いつかれる意志を、自由意志ではなく「選択可能意志」と呼んで区別することにしよう。自由意志とは、最善の経路が選択された意志のことをいう。これに対して選択可能意志とは、自然の因果(外的原因)に規定されずに、複数の手段候補の中から実行する行為を選択できる意志のことだ。

 一般的な文脈で自由意志というときは、どちらかといえば選択可能意志のことを指している場合が多いと思われる。カントの定義でいえば、自由意志の積極的定義のみを自由意志ということにして、消極的定義に関しては選択可能意志という言葉を当てるということになる(自由意志の積極的定義と消極的定義については、第四章参照)。

 複数の手段から選べるならその中でもっともよいものを選択するのは当然なので、選択可能意志は必然的に、自由意志にならざるをえない。そう考えれば結局はどちらも同じものを指しているのだとみなしたくなるが、注目する側面が異なっている。選択可能意志の方が、自由意志よりも範囲は広くなる。


 一方ヒュームは自由という言葉を「自発性」の自由(強制に対立する意味での自由)と、「無差別」の自由(必然性と原因の否定を意味する自由)に区別する。

 彼によると「前者(自発性の自由)は語のまさにもっとも普通の意味であり、これを保持することがわれわれにとって重要な唯一の種類の自由であるから、われわれの思考は主としてこれに向かい、ほとんどすべての場合に、後者(無差別の自由)と混同していたのである」(*2)

 この区別でいえば、自発性の自由が本稿第四章で主題とした「自由」であって、無差別の自由が本章で問題にする(因果関係に規定されない行為も可能という意味での)「選択可能意志」を指しているといえるだろう。


*2 ヒューム『人間本性論第2巻』154~155頁。()内は邦訳者の石川/中釜/伊勢による言い換え。


 さてこうしてしばしば自由(意志)という同じ言葉で表されるものが、(カント的)自由意志、選択可能意志、自発性の自由の三種におおまかに分けられた。責任の所在を決める際に重要なのはこのうちの一種、(価値評価をオンにした)選択可能意志となる。

 次節からは、責任の所在を決める上で障害となる問題について、いくつか考察していこう。

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