記憶と自律
もし人間に、ほかの生物より優れている点がなにかしらあるとするなら、それはおそらく、より多くの原因に影響されて行為できるということに違いない。
この点を示す心理学実験として、心理学者のウォルター・サミュエル・ハンターによってはじめられた、種々の動物種を対象とした遅延反応の実験が、さまざまな研究者によっておこなわれてきた。これは刺激と反応の間に時間が空いた場合に、どの程度の時間までなら、刺激が原因となった反応が起こるのかを調べる実験だ。
この実験ではまず対象となる動物を、装置の中のいくつかある部屋のうち、明かりが点灯した部屋に入るとえさがもらえることを、オペラント条件づけで学習させる。それから一時的に行動を制限するため、その動物をガラス張りの留置箱に入れておく。そして明かりのついている間は、留置箱のドアを閉めておく。
明かりが消えてから一定時間、留置箱に動物をとどめて待機させたあと、ドアを開けて反応を許す。対象が人間の子どもの場合は、ゲートによって仕切られた部屋で、ゲートが開いたら向かいの壁にある、豆球が点灯していたボタンを押すように教示される。
また別の実験では、たとえば動物の眼前で、同じ大きさ、形、色をした複数の容器のうちの一つに、報酬のえさを入れるのを見せる。そして容器と動物の間にスクリーンを下ろして、動物に容器が見えないようにして待機させる。一定時間の経過後、スクリーンを上げて、動物に容器をどれか選ばせる。
こうした実験によって動物各種、反応が許されるまでの時間(遅延時間)がどのくらいの長さまでならば、報酬のもらえる部屋や容器を選べるのかを計測する。その結果、どちらの実験でも、人間がほかの動物より長い遅延時間でも正答率が高かった(*1)。
*1 『心理学第5版補訂版』27~29頁。
この結果はもちろん、人間の高い記憶力によるものだろう。
こうした遅延反応でも、明かりが点灯したり、えさが容器に入れられたところを目撃したという、過去の知覚が原因(入力)となって、ボタンを押すなどの動作(出力)が結果として生じている。より詳細な因果の順序を考えると、オペラント条件づけをする際の学習経験や、実験時に見た部屋の明かりの点灯といった過去の知覚が原因となり、それぞれに記憶するという結果が生じる。そしてゲートが開いて行動の自由が拡大したという原因と、これらの記憶という原因が総合されることによって、ボタンを押しに行くという結果が生じた。
ここでは記憶は将来の行動の原因となりうるもの、すなわち原因可能性として人の内部に所持されていて、それが外的原因(知覚)と行為(ボタンを押しに行く)という結果の間にある、タイムラグを埋めているとみなすことができる。もしこうした記憶がなされずに、行動の自由が拡大したというだけだったとしたら、ボタンを押しに行くといったような行動は生じなかっただろう。
もしこうした行動を観察している第三者が、行為者が過去に明かりが点灯したところを目撃したということを知らなかったとしたら、ゲートが開いたことだけが原因となって、ボタンを押しにいったように見えただろうと思われる。因果関係の認知が、いかに観察者の把握している範囲に左右されるかということが、このことからもよくわかる。
人間は記憶能力が発達しているおかげで、過去にあったさまざまな経験を参考にし、あるいは無意識的に影響されて行為することができる。
ある状況でAの行為をしてから、その後にまた同様の状況になった際にBの行為をしたことが、まったく同じ原因から異なる結果が生じたように見えたとしても、実際はBの行為をしたときには、以前にAの行為をしたという記憶が影響している可能性(前はAをやったから、次はBをしようと考えた可能性)があるから、二つの行為がまったく同じ原因構成から生じたとは必ずしもいえない。実際の原因からの行為出力は、もっと複雑なはずだ。
われわれの日常的な感覚では、理性によって、複数のありうる手段からそれぞれで予測される帰結がもっとも都合のよいものを、なにものにも影響されずに実行できるように思えるかもしれない。
だがこれも世界の状況のうち自身が注目した要素だったり(どこに注目するかも、それまでの経験に影響されるだろう)、他者の思惑の推論結果(あの人はこう考えてああするだろうから、自分はこうしよう)、蓄えてきた知識、自身に必要だと考えられるもの(自身に足りていないもの)など、さまざまな原因が総合されて、最終的に行為が一つに決まる。もしかするとこの文章を読んでいること自体、あなたの今後の行動になにかしらの影響を与える、原因の一つになるかもしれないのだ。
こうした仕組みのおかげで、短時間のうちに発生した直近の原因のみならず、はるか前に取得した道徳的信念を原因可能性として記憶のうちに留め置き、必要なときに道徳という原因を発動させ、自身の行動を改善していくことができる。
このように原因と結果の関係は、必ずしも一対一とは限らず、複数の原因から一つの結果が生じることも、往々にしてありうる。そのためなにかしらの悪い結果が予測されるとして、そうした不都合な結果を避ける方法は、必ずしもその結果を引き起こすだろう原因を取り除くだけとは限らず、ほかの原因を追加することによって結果を変える方法もありうる。
責任を原因と混同したり、選択可能意志を原因をつくる能力でしかないと考えてしまうのは、結果を変えるには原因を取り除く以外の方法はないと思っているからだろう。
たとえば自分の行為を非難してくる人がいれば、怒りを感じ、非難してきた人に反撃して罵倒したり、殴りかかりたい衝動に駆られるということもあるかもしれない。その際に自身の内部に道徳性という原因可能性が存していれば、怒りの感情という原因に道徳という原因を追加することによって、反撃するのではなく、自分が間違っていたと認め、自身の行動を改めるという結果をつくり出すこともできる。怒りにまかせて暴走することを食い止めるのは、必ずしも怒りをはじめから抱かなくすることだけではないのだ。
この世界においては、たとえ一定の因果法則が見出されたとしても、ほかの原因が総合されて、異なる結果が生じる可能性がつねにある。もし手から話した石が真下に落下するのを防ぎたければ、その石に空中で別の石をぶつけるなりして、その軌道を変えればいい。同様に外的刺激という原因に即座に反応して行為に変換する、人間の単純な入出力システムの流れにあっても、もし道徳や責任という名の石(刺激の処理方法)を横からぶつけて行為の軌道を変えることができれば、間接的にでも結果を操作することが可能となる。
そう考えれば、たとえ人間のあらゆる行為が因果の網の目に完全に規定されていたとしても、その因果の網の目の一部としてある道徳的概念にも、意味が出てくるに違いない。おそらくはそれらの概念もまた、誰かに非難されたり諭されたり、自身の行為の結果から学習したりといった、過去の経験が原因となって取得されたものなのだろう。そうして得られた道徳や責任といった概念がまた原因のひとつとなって、われわれの行為に影響を与える。
こうして正当な道徳的概念が原因可能性として、人間内部に所持されている状態こそが、「自律」と呼ばれる。カントは因果法則に支配される感性界と人間の認識範囲外にある叡智界とを区別し、自由意志を叡智界から感性界(自然界)に干渉するものとすることで、自由と因果法則の対立(二律背反)を回避しようとした。だがわざわざ叡智界をもち出すまでもなく、自律した人間は感性界だけでも十分に可能だということがわかった。記憶の中にある原因可能性が外からは見えないがために、一切の経験的な原因を排除しているような見かけをつくり出しているにすぎないのだが、それでも十分に自律しているといっていい状態はつくり出されうる。
その人がそのような道徳性をもつに至った出来事を知っている人なら、彼がそのように行動することを外的原因に規定されていて、必然的な結果だと思うだろう。しかしそうでない人の目には、たまたまその人が自律的な人だったために、その場の空気や同調圧力といった外的原因からの影響をまったく受けず、自分の意志で第一原因をつくり出しているように映ることだろう。
因果的な必然と偶然の違いが認識範囲の違いでしかなかったのと同じように(第三章参照)、自律および自由な意志と決定論に支配された意志の違いも、どこまでが認識範囲に含まれているかの違いでしかない。
道徳的概念は内部で原因可能性として持続するため、外部原因(道徳概念を取得した原因)の効果が一度きりでは終わらず、何度も原因としての効果が発動して、その人の行為に影響を与え続ける。ゆえに一度でも適切な道徳的信念をもったり、責任を感じることにつながるような出来事(原因)が起これば、その後の行為すべてに影響を与えていく。
そのような自律的な人が増えることが、社会をより安全なものにして、一人ひとりの目的がうまく促進される確率を上げてくれることになる。




