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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第八章 動機を意味づける
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実質道徳に向かって ~自律と他律~

 形式主義から逃れるためには、行為の善悪を考える際に、その行為がなにを目的におこなわれているのかを意識するしかない。

 他者の目的を知るには、たんに他者の行為を知覚するだけではなく、知覚したものからその意志を推論することが必要となる。その人の置かれた状況、行為といった具体的な要素と、もっとも整合的な目的はなにかを考えることによって、他者の目的は推測される。

 これは言い換えれば、相手の立場になってその人の気持ちを考えるということだ。もっともこれは蓋然的(確率的)な推論なので、演繹と違って確実な答えを得られるようなものではない。とはいえある程度の確率をもって推定することなら可能だろう。


 加えて他者を道徳的にするためにおこなうべきなのは命令ではなく、なぜ道徳的でなければいけないのか、どのような目的なら正当といえるのかを理解させるための、説得でなければならない。なぜなら命令は動機をつくり出さず、それだけでは持続的な行動変容を起こすことがないからだ。

 もし命令によって行動を変えたように見える人がいても、命令を聞くことがたんなる習慣になっている場合もあるにせよ、少なくともそのきっかけとなった真の原因は、命令者との人間関係が壊れることだったり、命令を拒否することで予期される罰などの不利益を避けようとしただけといった理由によるものと思われる。そういった別の原因がない限り、人は命令されたとおりにしようとは思わないだろう。

 もっとも幼少期であれば話は別だ。子どもはまだ経験が浅く、思考能力も十分に発達していないため、大人のいうことをそのまま聞く方が生存確率が高くなることが予想される。そのため自然選択によって、人の命令を形式的に受容しやすくなっているとしても、おかしいことはない。

 だが大人になるにつれて、そのような傾向は次第に薄れていくだろう。なぜなら大人になってからも人のいうことはすべて鵜呑みにしていたら、他者にだまされ搾取される確率が高くなるだけだろうからだ。

 ダーウィニズムに則って考えれば、幼少期は命令が行動変容の直接的な原因になるが、大人はそうでないということは十分にありうる。そのような幼少期の傾向を、成熟した人間全般にまで当てはめるべきではない。


 道徳的であることに意味を感じるのではなく、別の目的が道徳行為の理由になるような他律的な形式主義では、深刻な問題が発生する。

 たとえば非難されたり罰せられることへのおそれから道徳を守る意味があると判断し、道徳の動機にしたとしよう。するとその人は、見た目の上では道徳的であるかのようにふるまうかもしれない。

 しかしそうしたふるまいは、その人の意志のみから生まれた判断を十分な原因とするものではなく、非難されうる環境という偶然に依存することになる。するとばれないところでは悪いことをしてもいいという考え方にもなりうるし、たとえばインターネット上での匿名での誹謗中傷だったり、組織内で立場が偉くなったことによって、周囲の人が文句をいえなくなった状態での悪行(ハラスメントなど)などは防ぐことが困難となる。

 たとえ道徳的な命令を受けたその場ではその通りの行動をしたとしても、そのことがその人の道徳性が高まったことを意味するわけではないのだ。


 したがって道徳は、非難や罰へのおそれからくる他律ではなく、意志を直接規定する自律によって守られなくてはならない。第五章「不完全義務の価値と相対主義」で紹介した心理学実験の結果はまさしく、そうした責任回避傾向をもとにした、他律的道徳判断の欠陥を教えてくれるものだった。

 非難や罰はその不道徳性に気づかせることに役立つ可能性はあるが、あくまでそのきっかけを提供するにすぎず、最終的には本人が自分の道徳性を改善する以外には、決して人の道徳性が改善することはない。


 道徳を形式的に理解する人の中には、道徳をみずからの自由を制限するものだと考えている人もいるだろう。そして法の抜け穴を探すように、いかに道徳の抜け穴をついて自己利益を最大化できるかという、道徳的に非難される種類の利己主義的な、小狡い考え方がなされる。法的に問題がないという理由で行為を正当化するたぐいの人は、その典型的な例だ。

 しかし道徳とは本来、その意志のあり方に直接かかる実質的なものなので、抜け穴の余地などは一切ない。なぜなら道徳の裏をかこうとした時点で、その意志は即座に道徳違反となるからだ。しばしば法に抜け穴ができるのは、法というものが行為を対象とした形式的なものだからにすぎない。


 道徳はすべて家庭や学校の教育によって、後天的に外から与えられたものにすぎないと主張し、道徳の正当性を否定するタイプの道徳懐疑論者もいる。

 道徳判断に使う矛盾という形式はアプリオリだが、判断の素材として使う道徳範囲、そして実際になにとなにが矛盾しているかは最終的には過去の経験から判断されることなので、たしかに道徳とは後天的なものといえるかもしれない。

 だがそのことは、道徳の正当性とはなにも関係がない。いかなる手段も後天的に獲得されるが、その手段に意味があるのは、決して誰かがそういっていたからではなく、それが目的に役立つか反するかという、この世界の客観的な性質に由来しているからだ。

 結局それが後天的なものであることを理由に、道徳には意味がないと主張している人が想定している道徳とは、たんなる形式道徳のことでしかない。そのためにやはり道徳をみずからの自由を制限するものと認識し、道徳を否定したいという思いが生じる。それら形式道徳はときに完全義務のみかけをもつようなこともあるとはいえ、実際は不完全義務の一つでしかないことが多く、ゆえに道徳の一部を表しているだけであって、決して道徳の全体ということはできない。

 完全義務はどのような目的を志向するか、もしくは目的に反するかという観点で分類される義務だ。そのため道徳の目的がなにか、なにを目指しているのかを捉えない限り、完全義務は考慮の外に置かれ、不完全義務が道徳のすべてだと錯覚するようになる。

 そうして道徳の一面しか捉えられていない、表面的な道徳理解ができあがる。


 カントが義務に適合して行為したという意識と、義務にもとづいて行為したという意識を区別しているのも、おそらくはこのあたりの事情に由来しているに違いない(*1)。

 前者は意志を規定しているものが心の傾きだけだったとしても、つまり非難されたり罰されるのを避けたり、報酬を得たり称賛されるなど自己利益のみを目的としていてももつことができる意識であって、カントは「適法性」と呼んだ。

 それに対して後者は道徳法則への尊敬の念によって行為したという意識、つまり道徳的であることを直接の目的とした意識であって、カントによって「道徳性」と呼ばれた。

 適法的な行為はたんに道徳的な行為を形式的にまねたものにすぎず、道徳範囲の広さが不十分なために、道徳への保証がない。他者の目的を害しない、もしくは促進することを直接に意志してこそ、その行為は道徳的と呼ばれるにふさわしいものとなる。


*1 カント『実践理性批判2』(中山訳)39~40頁。

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