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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第八章 動機を意味づける
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形式道徳と動機(2) ~同調圧力と宗教~

 今に限らず昔からあるような道徳のほとんどは、<他者>を道徳的にしようとすることから生まれてきた。

 日本ではしばしば道徳が、常識という言葉で表現される。そのことからもこの国では、同調圧力によって道徳を実現しようとされてきたのだろうと推測できる。反対に西洋など道徳宗教が浸透している地域では、神や預言者の教えという神聖さを用いることによって、同じことをしようとしてきたのだろう。


 もちろん同調圧力は、決して日本人にだけ備わっているものではない。

 ピーター・シンガーによると「部族社会では、『それは習慣的ではない』[という言葉]には、しばしば『それは間違っている』[という言葉]がわれわれに与える[のと同じ]強制力がある」(*1)

 日本は特に同調圧力の強い社会だといわれることも多いが、実際はそうした方法が本来の部族社会のやり方であって、そうして同調圧力によっておこなわれていたことの一部(社会の構成員に社会秩序を守らせること)が、西洋では次第に宗教や人権思想などで代替されるようになったのだと思われる。

 それに対して日本では変わらず部族社会の方法を継続してきたために、日本社会は同調圧力が強いといわれるようになったのだろう。

 なんにせよここでは、日本の同調圧力と西洋の道徳宗教はともに、不道徳な人を道徳的にするという、同一の目的のための手段という点で、同等の意味を有していると考えられる。


*1 Peter Singer, The Expanding Circle, p.94.[]内は引用者による補足。


 こうした違いが生まれたことにも、なにか理由があるはずだ。

 一つ思いつくのは、同調圧力の性質によるものだ。あらゆる他者を共同体の内にいる人と外にいる人とに分けた場合、同調圧力は内側の人にしか通用しないのはあきらかだろう。たとえば非難だったり、村八分のような罰へのおそれというのも、一種の同調圧力と考えられる。事実コミュニティ外の人間に対する非難というのは、あまり効果があるようなイメージがわかない。というのもなぜ非難されることに人が不快感を覚えるのかを考えてみるなら、他者に協力を拒否されたり、嫌がらせを受けたりといった、日常生活上の不利益を予期することからくるものと思われるからだ。

 そのため自身の生活基盤がない社会の人間に非難されたところで、特に気にしないということは難しくない。もし気になるという人がいたとしても、それは非難されることに不快感を覚えて避けたいと思っているというよりも、非難者に共感したため、つまり非難者を同じ社会の一員として考えることからきていると思われる。

 敵対国の人間から非難されることにうっとうしさは感じても、非難されたくないから行動を改めるのではなく、非難の不毛な応酬が繰り広げられるというのは、国際ニュースでよく見かける光景だ。これは自国に共感していない敵対国の政治家には同調圧力が通じないことの、なによりの証左となるものだろう。

 共感しないというのは、生存のために協力する仲間とはみていないということなのだから、相手が自身の所属するコミュニティ内の人かコミュニティ外の人かで、共感するか否かに影響があったとしても、不思議なことはなにもない。


 日本の場合は歴史的に特定民族(大和民族)が圧倒的優位に立ってきたため、支配した他民族を内に組み入れることが可能となり、道徳の実現手段としての同調圧力が機能しやすかった。

 それに対して多くの民族が入り乱れて争いの絶えなかった西洋では、民族を越えた人間関係に同調圧力がうまく機能せず、次第に道徳宗教がその座に取って代わったということなのだろう。宗教なら民族の垣根を越えて、有力な説得手段になりうる。もちろん特定宗教への信仰が民族のアイデンティティになっているということも多いが、道徳を内容に含んだ宗教には特定民族を越えて広がっているものが多い。


 当然同調圧力にしても宗教にしても、手段であるからには悪用の可能性もある。前者は戦時中に反戦論の弾圧に用いられたし、現代でも常識という言葉は、社会に不満をもつ人を封じるためにしばしば濫用されているようにみえる。対する後者も、戦争やテロリズムの正当化に使われるということが、幾度となくあったのは周知のとおりだ。

 しかし何度もいうように、正しさはなにを目的(経路が通る客観的目的)としているのかにも左右され、手段単体には善悪の根拠は含まれない。だから決してみんなが正しいといっているから正しいとは限らないし、神の導きだといえば他者への危害が正しくなるわけでもない。

 もちろん反対に同調圧力だから、宗教だからというだけの理由では、それが間違っているという根拠にもならない。

 このように本来は道徳のために編み出された手段が、間違った考えの正当化に悪用されるというのもやはり、手段という形式に正しさの根拠を付与しようとする、形式主義からくる問題といえるだろう。

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