形式道徳と動機(1) ~道徳命令~
日本的な常識にせよ、儒教やキリスト教のような宗教的な道徳にせよ、一般的に道徳とされているものの多くは、形式的な原則集になっている。
たとえば「人様に迷惑をかけてはいけません」というときも、「目上の人を尊敬せよ」だとか「あなた自身を愛するようにあなたの隣人を愛せ」というような道徳命令にも、なんのためにという意味判断の過程が省略されている。こうした道徳に対してなぜという問いを発すること自体が、不道徳なことだと嫌悪されたり、非難される場合もある。
だがそうした意味判断の欠如は同時に、動機が欠如していることをも意味している。
たとえ同じ行為だったとしても、意味判断を介しているかどうかの違いは大きい。親より先に死んだ幼子が賽の河原で無意味にひたすら石を積み続ける行為は、誰だって苦行でしかないと考えるだろう。意味のない行為に時間を費やすことは機会損失であり、生存活動をする上で好ましくないという判断が働くため、苦痛が発生する(賽の河原にいる時点で、生存には失敗しているのだけども)。
それに対して庭造りを趣味にしている人が、同じように石を積む行為を長時間、なんら苦もなく続けているのを見て、本当に好きなんだなと感服することはあっても、その人のことをおかしいと思う人はいないだろう。その行為が、自身の楽しみのためにしていることだと、わかっているからだ。
さらにいえば、ただたんに賽の河原での石積みを率先してやりたいと思う人はほとんどいないだろうが、もし石をうまく積めれば生き返ることができると菩薩様からいわれたら、おそらく率先して石を積もうとする人が続出する。石を積むことに、意味が生じるからだ。この場合でも先の例と、やっていること(石積み)自体はなにも変わらないにもかかわらずだ。
結局形式的な道徳の問題は、自己利益と絡められないことにある。そのために多くの人にとっては、道徳というものが煩わしくて、ただただ面倒なものに思える。
もちろん自己利益と絡めるとはいっても、自分のことだけを考えて行動するために道徳を利用すべきといっているわけではない。
自分の利益のために社会を善いものにするのは、一般的に不道徳とされる利己主義とは異なる。すでに述べたように利己主義の問題とは、自己利益のためならば他人に害を与えても構わないと考えるところにある。しかし社会を通して自己利益の充足を図るのならば、誰にも害を与えはしない。道徳的にふるまうのは、形式的に道徳をまねるのではなく、正しい目的という実質をともなったものならば、自分のためだったとしても構わないのだ。
カントは道徳を形式主義的に考えたが、それは次のような理屈によるものだった。
彼によると、快不快の感情を生じさせるような行為の対象(目的)は、実質的なものと考えられる。しかしなにが快をもたらし、なにが不快をもたらすかは、経験的にしか知りえない。そのような快不快は第七章でも説明したように、人によって、時と場合によって異なるような偶然的なものだ。すると快不快を基準とした道徳もまた、偶然的なものにしかなりえない。
だから普遍的な道徳基準を定めるためには、そのような実質的なものをすべて取り去る必要がある。すると実質的なものを否定するのだから、残った形式部分にこそ、普遍的な基準があるということになる(*1)。
*1 カント著、中山元訳『実践理性批判1』光文社古典新訳文庫、2013年[1788年]、77頁。カント著、中山元訳『実践理性批判2』光文社古典新訳文庫、2013年[1788年]220~221頁。
たしかに経験的なもの(獲得可能なもの)を目的にするなら、道徳は安定しないものとなるだろう。
しかし主観的目的および客観的目的で目指されているのは、快不快の感情ではなく、経験には決して現れることのない理念だった。これは人が生きている限り、生涯にわたって変わらず訴求し続けるもので、つねに一貫した同一の基準となりうる。
そのためここまでに説明してきたような理論ならば、カントが懸念した問題は十分解消されているように思う。理念といえども行為の目的であるからには実質的なものということができ、したがって必ずしも普遍的な基準の根拠を、形式にだけ求める必要はないだろう。
なぜこの世界では、ここまで多くの形式的な道徳が蔓延しているのだろうか。
それは自身が道徳的であろうとするよりも、他者を道徳的にしようとすることが先に来ているためではないだろうか。つまり問題の源は、道徳的な命令にある。
誰かが不道徳な行為をしているとき、それをとがめようとした人は通常「~しろ」「~するな」というような、作為不作為の命令を発する。法や規則といったルールも「~しなければならない」「~してはいけない」と、同様の形で定められる。だが命令とは、その人の<意に反する>行為を具体的に指示するものだから、そこには意味判断が含まれていない。
なぜこのような形になるのかというと、道徳の核となる要素である目的は、自然現象として現れるようなものではないからだ。他者の目的は、決して目に見えるようなものではない。たとえ他者に目指すべき目的を具体的に指示したところで、その人が本当にその目的を志向しているのかが、ほかの人からはわからないのだ。第五章「手段の義務と目的の義務」で引用したカントの言葉にもあったように、なにか特定の目的をもつよう人に強制することはできない。
そのため他者を道徳的にしようとすると、目に見える形式的な行為を規制した方が確実と判断される。ここでいう形式とは、目的という実質的なものを捨象して、手段そのものを指定するものだ。
以上の理由により、道徳的な命令は形式的なものになりやすい。
加えてたとえ非難されているのが自分でなかったとしても、誰かが非難されているのを見ると、非難している人はその人が誤った目的をもっていることを非難しているつもりでも、その様子を見た第三者も正しくそう思うとは限らない。非難されている人の行為の目的が目に見えないばかりに、第三者の目には、その<行為自体に非難理由がある>ように映る可能性があるのだ。
先ほど観察による道徳学習は、他律的で偶然に左右されやすいという問題があると述べたが、たとえ正しく善い行為が称賛され、悪い行為が非難されるのを見て、本心から正しくあろうとして善悪を学ぼうとしても、観察内容を形式的に解釈した場合には、道徳の本質を見誤る可能性がある。
不道徳な行為をしている人を非難すること自体は、陰口をたたくような場合も含め、至る所でおこなわれている。こうした道徳的な話題に魅力を感じる人は昔から多かったらしく、カントも「あらゆる議論の中でも、ふつうならどんな理屈にもすぐに飽きてしまう人でも参加したくなり、その場にある種の生気が生まれるような議論がある」として、次のようにいう。
「それは、ある人の性格を決めてしまうあれこれの行為の道徳的な価値についての議論である。ふつうは理論的な問題についての緻密で思索的な議論は、無味乾燥で面倒だと考えるような人でも、語られた善行や悪行の道徳的な内容を詮索するような議論には、すぐに仲間入りしてくるものである。そしてそうした行為の意図の純粋さやその意図における徳の高さを低めたり、疑わしくしたりするような事柄をさまざまに考え出して、思弁のほかの客体[話題]でふだんは期待できないほどに厳密で、思索的で、繊細な議論を展開するものである」(*2)
ワイドショーの内容やウェブ記事のコメント欄を眺めてみればすぐにわかることだが、こうした傾向は今もまったく変わらない。実際、人間の会話時間の約65パーセントは、他者の善いおこないや悪いおこないに関するものに費やされているという話もあるほどだ(*3)。
*2 カント『実践理性批判2』220~221頁。強調はカント、[]内は邦訳者の中山による。
*3 人類学者のロビン・ダンバーによる。ジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ』60頁。
もちろんそのような傾向がないよりはあった方が、社会全体における不道徳なおこないが減ったからこそ、自然選択によって人間に傾向として備わっているのだと考えるべきだろう。だが理性の働きが不十分なこのような機能に盲目的に頼り切った道徳は、つねに形式的なものとなる。
経験的にもあきらかなこととして、人は周囲の人が誰かの行為を褒めていたり、あるいは非難されるべきものとして悪くいわれているのを聞いたりすることで、やっていいことと悪いことを覚えていく。前述したような観察学習の実験でも、被験者の子どもたちは、乱暴な言動が許されるのかどうかを学んでいたに違いない。その結果社会は、形式主義的な道徳理解で溢れることになった。




