手段の目的化で生じる問題(2) ~道徳的利己主義のすすめ、不道徳な他者への対応~
(道徳的利己主義のすすめ)
手段の目的化の行為に強く動機づけるという前述した効果があるために、特に他者の利益を直接の目的とするように目的化された行為は、一般に高い道徳的価値をもつと評価される。これが行きすぎると、スーパーエロゲイション(超義務)がしばしば道徳的な称賛の的にされているように、その価値が過大評価され、その反動でそれ以外の道徳の価値を否定することにつながる場合がある。
安彦一恵は自己を善なるものへと構成しようとすること(自己善の追求)を「道徳的利己主義」と呼んで批判する(*1)。
だが道徳的利己主義のなにが問題なのだろうか。たしかに客観的目的の促進を目指すのは自身の主観的目的のため、つまり自己利益のためではあるのだが、自己利益を求めることが即座に不道徳なわけではないだろう。
安彦は「利己的振る舞いをしないこと」は、徹底した利他主義としての「真正利他主義」(自分にもたらす効用を無視し、相手側の効用だけを求めること)として考えるべきだとして、たとえば飲み会の会計時にいい格好をして「私が全部もつ」といった場合でも、善いことをしていい気分になりたいという自分の効用を考えているという点で、利己主義として問題にできるのではないかという(*2)。たしかにこの場合はカントに訊いても、自分がいい気分になるという感情を目的とした仮言命法にしたがっているとして、その行為の道徳的価値を否定することだろう。
*1 安彦一恵『「道徳的である」とはどういうことか』170頁。
*2 同、110頁。
だがそうした自己利益を少しでも考えてはならないという考え方は、一見すると道徳的に見えるが、実際はたんなる手段の目的化によるものを、形式的に捉えたものでしかない。
もしつねに自己利益の増進を図ってはならないとしたら、人間は食事をすることさえ許されないということになるが、さすがにそれはおかしいだろう。安彦は競合性・排除可能性をもつ財(私的財)の自分だけの享受への思考を「利己主義」とし、その財が希少なことを前提としている(*3)。だとすると食料が豊富な社会ならば、食事をしてみずからの空腹を満たすことは利己主義ではないということにはなる。しかしその場合でも、食料が豊富でない社会では、食事をすることが不道徳ということになってしまうだろう。
*3 安彦『「道徳的である」とはどういうことか』96~97頁。
社会生物学のパイオニアである昆虫学者エドワード・ウィルソンは、利他主義というものを、意識的にも無意識的にも見返りを求めない「芯の堅い利他主義」と、社会からの見返りを期待しておこなわれる「芯の柔らかい利他主義」とに区別する。
そして彼は芯の堅い利他主義は血縁選択、すなわち競争関係にある家族または部族そのものを単位として作用する自然選択にもとづいて進化したものと考える。そのためこの行為はあくまで非常に近縁な血縁者に向けられるもので、相手との近縁の程度が薄まればそれだけ、その出現頻度や強度は急激に減少すると予想する。
対して芯の柔らかい利他主義は主として、個体レベルの自然選択にもとづいて進化したものと考えられるので、本質的には利己的な行為だとしている。しかし自分のふるまいに嘘偽りはないと信じ込んでいる行為者ほど、周囲に対して強い説得力を示すことになる。そのためその行動は、嘘や見せかけ、欺瞞などに媒介される(*4)。
*4 E・O・ウィルソン著、岸由二訳『人間の本性について』思索社、1980年[1978年]、229~230頁。
無私の行為は、道徳を目的化してその先の真の目的を隠蔽することからくる動機の安定というみかけを生じさせ、そのことが周囲の人の信頼を得るのに役立ち、行為そのものの価値を割り増しすることになる。何度もいうように道徳とは他者と目的を共有することによる協力なので、少しでも道徳の動機への保証がある人の方が、そうでない人より協力相手として信用できると考えるのは自然なことだ。ウィルソンの考え方は、本章の理論と整合する。
目的化された道徳の価値はその動機の安定にあるのであって、そのことは手段としておこなわれた道徳行為に価値がないということを意味しない。価値の度合いに違いがあるだけなので、一方がより価値があるからといって、他方に価値がないということにはならない。
別の目的があるから道徳的ではないという考え方は結局、価値の原因を誤推論することによって生まれたものにすぎない。しかし道徳を大切にしたいと思っている人ほど、こうした誤解に陥りやすいのだ。
そもそも利己主義(利己的、自己中心的)という言葉で非難されているのは、道徳範囲の狭さ、つまり他者の利益に配慮していないということであって、自己利益の増進を図っていることそれ自体ではない。自分のことを考えるのが悪いのではなく、自分のことしか考えないのが悪いのだ。たとえ格好つけのために会計をすべてもったとしても、そのことで誰も害しないことを知っていたためにおこなったことならば、そこには悪意も悪意志もない。後述するが完全義務ではなく不完全義務のためならば、報酬(利益)目的だったとしてもなにも問題は生じない。
またこの事例や安彦の意図とは少しずれてしまうかもしれないが、自己のためであることが相手のためではない証拠になるということを、この道徳的利己主義という言葉で表すことがあるとしたら、それも誤りだ。相手のためになることが自己のためにもなるからこそ、道徳は成立する。つまり相手のためであることと自己のためであることは、両立可能だ。そのため自己のためだからといって、そのことが即座に相手のためではないということにはならない。
(不道徳な他者への対応)
真正利他主義には、もっと現実的な問題もある。
道徳を目的化することは道徳への動機を安定させるためにも意味のあることだが、しかし道徳は協力によるものなので、もし道徳的でない人に対して盲目的に道徳行為を繰り返すなら、その道徳は失敗する確率が高い。
あなたが道徳的でない人に道徳的にふるまったときに、もし相手があなたの道徳性を一方的に利用してくるようなことがあったとしたら、それはたんなる搾取でしかない。そのため道徳を成功させるためには、自分が道徳的なだけではなく、他者の道徳性を見極めることもある程度必要とされる。
真正利他主義の問題は、まさにここにある。自分自身の利益を一切無視して、相手の利益だけを考えて行動するとしたら、もし不道徳な他者がいた場合、一方的に搾取されて、身を滅ぼす結果にもなりかねない。
真正利他主義でなければ道徳的ではないという考え方では、不道徳な他者に対応できない。道徳の失敗を防ぐために相手の道徳性を見極めるには、自分自身の利益を気にかけることがどうしても必要になってくる。
とはいえ道徳性の低い相手なら、自身も不道徳にふるまっていいのかというと、それも違う。なぜならやり返そうとして自身までもが不道徳にふるまうことになれば、その時点で自身の行為までもが客観的目的の理念と矛盾してしまうからだ。
それならば、不道徳な人とはたんに距離をとるまでだろう。ミルがいうように誰にでも「交際を避ける権利がある」(*5)。特定の誰かとの交際がないこと自体は、誰の主観的目的とも矛盾しない。だから自分に害をなす人との縁を切ったとしても、道徳的な問題はなにも生じない。
*5 ミル『自由論』(斉藤訳)188頁。
先ほど道徳の経験的学習について、環境に依存しているために偶然性を排除できないと述べたが、環境による学習を必然的なものにする方法も、ないわけではない。偶然的なのはあくまで、たまたま自身が置かれた環境から、受動的に学習する場合の話でしかない。
不道徳な人が多い環境に自分がいると思うなら、意識してその環境を脱し、みずからの意志によって道徳が成功しやすい環境に自分の身を移動させることだってできる。そうすることで道徳行為から必然的な結果として、快の経験が得られる確率を高められる。これは道徳の有効性感覚を得るということだから、うまくいけば自身も道徳的な行為をしやすくなり、よい循環が生まれる可能性がある。
このようにして不道徳な人から距離をとり、道徳的な人との距離を近づけようとする人が増えれば、この世界は今よりも道徳的な人が幸福になる確率が高く、不道徳な人は不幸になる確率が高いものとなるだろう。
誰だって幸福になりたいと考えるから、そのような社会では道徳的になろうとする動機を得やすく、したがって道徳的な人が増えやすい社会となるに違いない。そう考えると不道徳な人や環境とはなるべく距離をとるというのは、そうすることが許されるだけではなく、人間にとっての義務でもあるといってよさそうだ。




