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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第八章 動機を意味づける
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手段の目的化で生じる問題(1) ~中庸論、形式化~

 前節では手段を目的化することのメリットについて論じたが、手段の目的化にも問題がないわけではない。なぜなら目的化がおこなわれるとその先の経路が見えなくなるために、意味判断が適切になされていないことに、気がつけなくなる可能性が出てくるからだ。

 当初はたしかに意味のある手段だったとしても、事情が変化した等により、同じ手段ではもはや目的を促進できなくなっているということがありうる。そうなればすでに意味を失った手段をいつまでも実行し続けるということになり、非効率なのはもちろん、そのことでむしろ目的に反する結果が生じる可能性だってある。

 一般社会で手段の目的化が指摘されるのは多くの場合、このような状態に陥っているときだろう。目的を見失ってしまえば、なにが正しいかを自身で判断する方法さえも失ってしまう。


(中庸論)

 アリストテレスは「徳とは、選択を生む性向であり、それはわれわれにとっての中間性を示す性向である」(*1)、つまり二つの悪徳の間にあるちょうどよいところに徳があるのだとする中庸論を主張した。

だがカントは「徳と悪徳の相違は、ある格率にどの程度従うかに求めることは決してできず、ただその格率の特別の質(法則への関係)にだけ求められねばならない」(*2)として、アリストテレスに反対する。

 彼が指摘するように「両極端の間にあるこの中間のものを、いったいだれが私に示そうとするのか」(*3)「徳と悪徳とを単なる程度によって説明することがまったく不当」で「アリストテレスの原則が役立ちえぬ」(*4)のはあきらかだろう。

 正しいか間違っているかは、正しい目的に対して適切な手段を選べているかどうかで決まるのだから、仮に目的を意識せずになんらかの程度によって中間を狙い当てることができたとしても、それはたんなる偶然にすぎない。まっすぐに引かれた線の上を目をつむって歩こうとするようなもので、そのようなやり方では、気づかずに中間から大きくずれていったとしても無理はない。盲目の手探り状態でいかにうまく歩けるかは問題ではない。おそらくアリストテレスを含めた徳倫理学者たちは、有徳な人を基準にして中間を知ることができるというかもしれない。しかしそれでも目的なしには、有徳な人とそうでない人を見分ける基準を、われわれはもっていない。それよりはしっかり目を開けて、正当な目的に向かって一直性に進んだほうが確実で、無駄がないのはあきらかだろう。


*1 アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』(渡辺・立花訳)133頁(第2巻第6章)。

*2 カント「徳論の形而上学的定礎」『カント全集11 人倫の形而上学』272頁。

*3 同、273頁(原註)。

*4 同、307頁。


 ここからわかるのは、過大や過小というものは、手段が形式化して、目的との結びつきを失ったことによって生じるものだということだ。

 老後の資金に何億と貯め込んでいるにもかかわらず、それでもまだ足りないとせっせと投機にいそしんでいるような人がいたら、その人を強欲な人だと評する人が現れるかもしれない。だがもしその人が、定年後の余った時間を慈善事業に使おうと、少しでも多くの人を救うための資金をつくっていることがあきらかになれば、一転称賛の対象になることもありうる。

 つまり同じ行為だったとしても、非難(もしくは軽蔑)の対象になるか称賛の対象になるかは、その目的によって決まる。なぜならどんなものも、その必要量は目的によってでしか決まらないからだ。

 手段が目的化すると、必要量を見誤る可能性が出てくる。形式化した欲求は「欲望」と呼ばれる。欲望を満たすことを目的化するときりがなく、おそらくはどこかで疲れ果て、逆に損をしているということに気がついたとしても、そのときにはもう遅いかもしれない。


(形式化)

 目的化した手段が、社会で形式的に受容されることで生じる問題もある。

 たとえば自由や人権などの概念も、しばしば形式的に理解されることで、社会を混乱させているように見受けられることがある。憎悪表現だったり、人を傷つける発言を表現の自由をもち出して擁護するような場合などが、その典型だろう。しかし自由や人権はあくまで、主観的目的に矛盾する要素を排したり、誰かしらの正当な目的を促進する目的で、客観的目的に反しない限りで主張しなければならないのは、いうまでもないことだろう。


 同様にしばしば経済政策の目標とされる国民総所得(GDP)も、まるでその数値さえ上がっていれば社会はよくなっているかのように、その先の目的が見失われることが多いように思われる。

 GDPの増加(経済成長)が社会に求められるのは、所得の増加が人びとの幸福の増進に寄与するはずだという考えを前提にしている。しかしたとえGDPが増加したとしても、その所得が偏っているようではあまり意味がない。効用逓減の法則により、富裕層にとっての100万円増加と、貧困層にとっての100万円増加では、同じ100万円の所得増加だったとしても、異なる価値をもつ。にもかかわらずどちらでもGDPの増加幅は、同じ100万円になる。極端な話、10人の所得がそれぞれ10兆円増加し、その他一億人の所得がそれぞれ10万円減少したとすると、GDPは90兆円増加することになるが、社会の価値は減少する確率の方が高いだろう。

 所得の合計が同じだったなら、最悪の場合がなるべくましな社会の方が、まれにうまくいったときにだけ青天井な社会よりもリスクが少なく、一般的に高い価値をもつといえる。もちろんたとえなにもしなければひどい状態になる可能性があっても、各々に可能な行為でその状況を脱せられることが保証されていれば、つまり機会の均等が保証されていれば、リスクが少ない社会と評価できる余地はある(もちろんその際には、個々の能力には差異があることもしっかり考慮する必要がある)。

 現代のマクロ経済学の基礎には、功利主義的な思想がある。だが第六章で述べたように全体の単純な総計は、決してその社会の価値をそのまま表すものとは限らない。そのため社会の価値を高めるための手段として国民総所得という指標が有用なのはたしかだとしても、そうした数値だけで形式的に判断していては、経済格差によって客観的価値がむしろ下がっていても気づけなくなってしまうだろう。


 なぜこのように形式化した目的が流通し、意味判断されることもなく人びとに受容されてしまうのだろうか。

 特に不完全義務としての正しさの場合はそうなのだが、目的を促進する手段になるものというのは、あくまで目的を促進する<可能性>を示すものなので、決して絶対的なものではない。しかし「正しいかもしれない」といういい方を自信のなさの表れとみなす人が少なからずいるため、説得力をもたせようとして無条件に「正しい」と断言する人が出てくる。するとその主張を因果関係の検証もせずに受け入れた人の中では、ほかの手段との比較の余地が失われ、価値観(手段選択)の一種にすぎない主張が絶対化する。

 手段の一種とみなせば価値が相対化してしまうので、必然的にそれ自体が目的とみなされ、道徳の形式化が起こる。この場合真の目的とのつながりが絶たれているため、手段を変更するという発想が出てきづらく、状況変化に柔軟に対応することができないという弊害が生じる。


 もちろん実際に行為するときには、なるべく手段は目的化されていることが望ましい。だが事情や状況が変わった際には、その目的化した手段が変わらず意味をもっているのか、道徳的目標として社会で受容されているものが具体的になんのためにあるのかを考えるなどして、目的を効率的に促進していくためにも、必要に応じて意味判断をやり直すことが各人に求められる。というのも目的の促進に失敗しているような形式的な手段を実行し続けることほど、むなしいことはないだろうから。

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