手段の目的化
なぜ意味判断時点と行為時点で、異なる行為理由であることが可能となるのだろう。
結論からいうならば、人間には「手段の目的化」という機能が備わっていることによる。つまりまずはあらかじめ道徳を、主観的目的のための手段として意味判断しておき、実際に行為する際には、手段を目的化することによって、道徳それ自体を目的に行為する。
手段の目的化という言葉は一般的に、あまり好ましくないものとして使われることが多い。だが人間社会では、非常にありふれた現象でもある。
人間はとても多様であり、それぞれでまったく異なる目的を志向していて、そのせいでときには、どうしても両立し得ない目的どうしが対立し、しばしば紛争の種となっている。
しかし価値観の違いとは、最終目的の違いではなく、最終目的までの道のり(経路)の違いにすぎない。経路はたしかに人によって千差万別であって、人の価値観は多元的といっていい。だが最終目的自体は人が人である限りすべての人に共通しており、したがってどのような経路を選択しているのかを他者の立場から想像して理解することは可能だし、代替手段を提案したり議論するなどして、意見を一致させて対立を解消することも、お互いに理性的である限り不可能ではないはずだ。
にもかかわらず現実の世界では、必ずしもそうなってはいない。なぜか。その理由が、手段の目的化だ。価値観の対立というものは、ほぼすべてが手段の目的化によって発生しているといっても過言ではないだろう。
とはいえここまで社会にありふれているものならば、手段の目的化も人間に標準的に備わっている機能だと考えていいだろう。これも自然選択によって人間に備わったものなのだとすると、手段の目的化にもなにかしらの意味があるに違いない。
なぜ手段にすぎないものを、目的として考える必要があるのか。一つには、手段として意識したものは偶然的可能的なものなのに対して、目的として意識することでそれを必然的なものにできるからだと思われる。以下の図8-3をみてほしい。
図8-3(1)のように、一つの目的に対して、手段は複数ありうる。するとたんなる手段として意識しているものは、本当にこの手段でなければいけないのか、なにかほかによりよい手段がありうるのではないかという疑念が生じやすく、意味判断が安定しない。
その目的も別の目的のための手段であり、さらに上位の目的に次々にたどっていき、最上位の主観的目的との関係となれば、無数にありうる手段(経路)候補の中から採用するものを選択しなければならない。すると判断を必要とするその都度、かなりの長考を必要とするか、さもなくば決めかねて混乱に見舞われるのは必須だろう。なんとか選べたとしても自身の判断に確信をもてないため、手段実行のための動機が揺らぎやすく、長期的な計画に沿った行動をしていくのが困難になる。
そのような事態を防ぐには、経路上の項を手段ではなく、目的として意識すればよい。どのようにするかというと、図8-3(2)のように、特定の項の先を隠蔽することで、それが可能となる。
目的と手段は総合的な関係なので、特定の手段に対しても、目的は複数ありうる。
主観的目的につながっている経路において、今現在選んでいる手段は最善ではないとして、ほかの手段を選択した場合なら、その先が主観的目的につながっていることは保証されている。だからほかの手段の方がいいのではないかという疑念が生じうる。
だがその一方で、異なる目的もあるのではないかという疑念は生じない。なぜなら異なる目的を選んだ場合には、経路そのものがまったくの別物になってしまうため、そもそも最終目的に役立つ保証がなくなってしまうからだ。
したがって手段の変更は容易でも、目的の変更には経路の大幅な再構成が必要とされてコストが大きくなるため、特定の項が目的化されることで、その項を通る経路の選択の必然性が高くなる。
このようになるべく今必要な手段に近い位置に目的を設定することで、迷いが生じる経路の数を減少させられる。たとえば(2)のように下から3つ目以降の項を隠蔽して、2つ目を目的化すると、ほかの手段の可能性を考慮するのはもっとも低段階の項(図では3つ)だけで済む。
何十何百とありうる経路の中からどれが最善かを選ぶのは、すぐには難しい。それと比べて、2つや3つの中からもっともよい経路を選ぶのは、そこまで難しいことではない。それどころか目的化した項を達成する方法が一つしか思い浮かばない場合なら、迷うことなくその唯一の手段を実行することができる。
したがって手段の目的化は、手段の必然性を高め、よって意味判断を安定させ、動機を安定させる効果をもつ。カントの定言命法とは、こうした手段の目的化によって道徳への動機が安定した状態を、道徳にとって理想的な状態と考えた結果として生み出された規則に違いない。
「なぜ道徳的でなければいけないのか」という問いは、ときに不道徳なものとして忌避されることがある。これはこの問いが手段の目的化を解除し、道徳をたんなる手段の一つとして、その意味を疑うものと思われるためだろう。道徳の意味が疑われると、その必然性が失われ、道徳的に行為しない可能性が生じるように感じられる。だが実際はむしろその逆で、意味判断なしにただ人からいわれたとおりに道徳を守っている状態こそが偶然的な状態であって、そうしたみかけの道徳性は、些細なことで簡単に失われてしまう可能性がある。
手段としての道徳の意味判断を意識的におこなうことによってはじめて、道徳は必然的なものとなる。なぜなら人から道徳を守るよういわれたために道徳を守るのは、自分ではなく他者の意志が道徳の主要な原因となっているのに対して、みずから意味判断して道徳を守る場合は、みずからの意志が道徳の原因となって、つねに道徳のために十分な原因可能性が、その人の内部に存在することになるからだ。そうなれば移り変わる環境による影響を最小限に抑え、安定した道徳性を発揮することが可能になるだろう。
手段の目的化は手段の必然性のみならず、結果の必然性を高め、その行為に快が条件づけされやすくする効果をもつ可能性もある。
快は目的が達成されたときに生じるものであって、たんなる手段の実行では生じない。遠い目的よりも下位の具体的な手段の方が早くに達成されるので、手段の目的化は結果の必然性を感じる機会を多くつくり出す。結果の必然性とは手段が目的に役立ったと判断されるということなので、その結果として快を生じさせる。よって手段の目的化は、快が生じる確率をも高める。
これは人が経験から学習し、環境に適応するための効率を高めるということでもある。無批判的に環境からの影響に左右されるなら、ただ道徳の安定性を損なうだけで好ましくないが、経験から学び、自身の行為を改善(最適化)していくことは、少しでもよい結果を生じさせていくためにも、推奨されるべき事柄といえるだろう。
したがって手段の目的化は、手段の必然性と結果の必然性をともに高めることに寄与し、モチベーション管理に大きく貢献する。これが手段の目的化という機能が、人間に備わっている理由だと考えられる。この機能がなければ人間は、目の前のことをするにもいちいちもたついていただろうし、遠くの目的もぶれぶれになるため、複雑な工程が組み合わさった目標を達成することも困難となり、ここまで優れた文明を築くことはできなかったに違いない。
ところで目的化した手段が、変わらず主観的目的に対して適切に意味をもち、それが十分な原因として目的を促進すると認められるなら、手段の選択もその行為によって引き起こされる結果もともに必然性を帯び、「そうすること自体に意味がある」と表現されるようになる。
意味があるとは目的に対して手段が役立つことをいうので、なんらかの行為そのものに意味があるという言い回しは、本来は不自然な表現のはずだ。
この言葉で表されているのは、本当に目的と関係なく手段そのものの中に意味が含まれているということではない。目的化したものがそれだけで十分な手段として、さらに高位の目的に役立つことを指していると考えられる。目的化しているので実際にそうすることがなんの役に立つのかまではいちいち意識していないとしても、なんらかの役に立つことだけは確信している状態だ。




