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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第八章 動機を意味づける
79/151

道徳行為と報酬、功利主義(帰結主義)と義務論(形式主義)の統合、動機の共有可能性

(道徳行為と報酬)

 形式的行為と実質的な行為、他律的行為と自律的行為、そして適法的な行為と道徳的な行為の違いは、動機の違いでもある。

 ミルは「溺れている同胞を助ける人は、その動機が義務であろうと労苦に対する報酬への期待であろうと、道徳的に正しいことをしている」(*1)という。

 しかし報酬(称賛も含む)への期待でおこなわれるような形式的な道徳(*2)では、道徳はたんなる偶然にゆだねられ、報酬が期待できないことを理由に道徳的であることを拒否する人が現れるなど、さまざまなひずみが生まれる。

 ミルのような功利主義者ならおそらく、報酬を得られない場面で溺れている人を見殺しにするのは、溺れている人を助けないのだからどのみち間違った行為になるという理由で、報酬目的の行為を道徳的に正しいとしても問題ないというかもしれない。だが報酬目的を正当化することによって、つねにそのような人を社会が許容することにつながるだろう。道徳行為の生じる確率を高めるという面では、あまり好ましい状態とはいえない。


*1 ミル「功利主義」『功利主義論集』281頁。

*2 カントの考えではおそらく、報酬目的の行為は報酬から得られる快楽という実質的なものを意志の規定根拠としているために、実質的行為に分類されるだろう。だがここでは、道徳的ではない意志のあり方によって、形だけ道徳行為をまねているという意味で、形式的行為と考えることにする。


 義務ではなく報酬が目的ということは、溺れている人の目的を尊重しているわけではないということを含意する。

 たとえ報酬をもらえることを予期していたとしても、報酬の有無にかかわらず溺れている人を助けるなら、それはもはや報酬目的とはいわないだろう。それは他者の目的を尊重した結果として、道徳的義務にもとづいて行為したついでに報酬をもらおうと思っただけであって、道徳の主目的、つまり他者の目的を尊重して社会の価値を高め、それによって主観的目的を促進しようとすることと、道徳的に正しくあることをその行為の十分な目的としているという点では変わらないからだ。


 道徳の動機が道徳的義務か報酬への期待かという違いも結局は、道徳が目的化されているのか、それとも別の目的(狭い道徳範囲)のための手段の一つでしかないのかという違いからきている。そのため前者では行為の手段選択が論理的に必然的なのに対し、後者はたんなる可能性にとどまり、自身の意志の傾向が行為の十分な原因になっていないという意味で、偶然的なものとなる。

 行為や意志のあり方が道徳的に正しいかは、あくまで道徳範囲の広さで決まる。つまり溺れている人の目的を、尊重したことによるものなのかどうかということだ。したがって十分な道徳範囲の道徳を、適切な意味判断によって目的化し、正しいことをそれが正しいというだけの理由でおこなってこそ、その行為は真に道徳的なものになる。


 とはいえあくまで道徳が十分な理由になってさえいればいいのであって、ほかの理由が同時にあってはいけないとか、報酬を受け取った時点で道徳性が失われるとか、報酬をもらっても喜んではいけないという意味ではない。

 報酬があろうとなかろうと関係なしに、正しく行動するということが重要だ。もちろん道徳的な活動を継続するための手段として報酬を得るという場合も、報酬ではなく道徳が十分な動機になっている(道徳が目的で、報酬がその手段)と考えられるため、なにも問題はない。


 もし正しいことを正しいというだけの理由でおこなわなければならないという要求が厳しいものに思えるとしたら(現にカントの義務論は厳格主義とも称されている*3)、それはおそらく正しいことを他者の利益を増進することと同一視し、つねに他者のために身を粉にして働かなければいけないというようなイメージをもっているためだろう。

 正しいこととはそれだけではなく、他者の不利益になることをしないことも含まれているということを思い出そう。報酬の有無にかかわらず他者を害しないことは、それほど難しいことではないはずだ。


*3 石川文康『カント入門』150頁。


 またこのことが、たとえば報酬目的の労働を否定しているというように、早とちりしてはいけない。たんに自己の利益を得ようとすること自体が道徳に反しないことは、すでに述べた(本章「手段の目的化で生じる問題② ~道徳的利己主義のすすめ、不道徳な他者への対応~」)。さらに労働のような行為には、次のような性質が加わる。

 誰かが労働しないことが、即座にほかの誰かの主観的目的に矛盾するわけではない。そのため労働自体は多くの場合、不完全義務に分類される。それに対して命を落としかねない人の救助活動は、誰かの主観的目的に対する不可欠性という点で、やはり労働とは果たしている義務の種類が異なっている。

 報酬目的が問題なのは、道徳行為の必然性が失われるためなのだから、労働のような不完全義務ならば、もともとが偶然的な義務なので、報酬目的だったとしても問題はなにも発生しない。したがって報酬目的が問題になるのは、あくまでそうしなければいけない道徳的義務(必然的義務)、つまり完全義務の場合に限られると考えていいだろう。


 といってもその場合は、問題がないというだけで、称賛されるかどうかは別問題だ。

 称賛は客観的目的を積極的に促進していこうとする、意志のあり方(動機の善さ)を対象とし、そのような意志を継続させるためにおこなわれる。

 正しい行為とは間違っていない行為のことだが、間違っていないからといって、称賛に値するとは限らない。なぜなら社会(他者)のためという善い動機が欠如した行為を称賛しても、社会のためになる行為の継続は期待できないからだ。

 そのため報酬目的の不完全義務は、間違ってはいないものの、称賛されるべき行為とはいえない。反対に社会の価値を高める(他者のためになる)ことを直接の目的とした行為は、積極的に称賛していくのがいいだろう。


 他方で報酬目的なことが問題となるような道徳行為とは、報酬をもらえることを、他者に暴力を振るわないなど完全義務の理由にしているような場合を指す。

 なぜなら暴力を振るわないことが普通だと思われるようになると報酬をもらえなくなるかもしれないと、もしその人が気づいた場合、そうなることを防ぐために、時折暴力を振るうようになるかもしれないからだ。

 そのような人がいる社会は、客観的目的の理念にはとても適合できない。


 どのような手段を用いるかや、実行のタイミングは各々の自由ではあるものの、客観的目的そのものである「社会をより善くする義務」も、報酬の有無にかかわらず、人間が社会的動物である限り、必然的にあらゆる人が負っているということも忘れてはいけない。そうでなければ客観的目的と矛盾するからだ。

 もちろんどんな人にも自分にできること以上のことはできないので、できる範囲で構わないことはいうまでもない。


 そもそも形式的な道徳理解のために道徳を煩わしく思っている人たちが、根本的に誤解しているのは、道徳は自由を制限するものではなく、自由をつくり出すものだということだ。

 自由とは感情のままに行動することではなく、主観的目的につながる経路の構成と実行の仕方、つまり最善の経路を選択実行するためにあるものをいう。したがって自由とは、感情の使用にかかる原理ではなく、あくまで理性の使用にかかる原理だといえるだろう。

 道徳を軽蔑し、この社会は弱肉強食だといってはばからない人びとが実際にやっていることは、あちこちに地雷を埋めることを人びとに推奨し、たんに地雷原をいかにうまく歩くかを競うことにすぎない。当然ながら地雷を撤去した安全な道を通っていく方が、はるかにスムーズで楽に歩けるし、目的地にも早くたどり着ける。

 道徳的な社会は、われわれの自由を守るために、必要とされるものなのだ。


 ***


(功利主義と義務論の統合)

 本章では動機がどのようにつくり出され、その要素としての目的の欠如がどのような問題を社会に発生させているのかを見てきた。

 その重要な要素として、手段の目的化を挙げた。この用語自体は日常的に使われているもので、なにも特別なことはない。だが目的化前後という時間的な関係を導入することで、実際的な効果(帰結)を重視する功利主義と、形式的な道徳行為、ひいては動機の善さを重視する義務論との間にあった決定的な溝が、うまく橋渡しされ、きれいに埋められたことがわかるだろう。

 この溝は200年以上もの間、倫理学全体を二つに裂いて、その学の社会的な地位を、曖昧で疑わしいものへと貶めてきた。だが第六章から本章を通して、長い間対立すると思われてきた二つの理論に、調停不可能な矛盾はないことが示された。そうすることでようやくわれわれの直観にもうまく適合するような、信頼に足る理論への道筋ができたように思われる。


(動機の共有可能性)

 本章ではまだ、やっておかなければならないことが残っている。それは本章の序盤で提起していた問題で、異なる人の間で動機の共有がどのようになされるのかについての考察だ。

 目的と手段が一致するなら、動機も一致しうる。目的を一致させる条件に関しては、実は第二章と第三章において、すでに考察されている。お互いの目的が同時に尊重された、共通の客観的目的が志向されるなら、異なる人の間で目的が共有されているといっていいだろう。そのために必要なのは、やはり道徳範囲を広げることだ。

 手段の一致に関しては、どうだろうか。条件づけによる手段選択は考察したが、これは置かれた環境による経験をそのまま受容したもので、偶然性の影響が大きく、異なる人の間で一致する保証がない。その保証を得るためには、まだ足りていないものがある。それは能動的な作用、つまり理性的な思考の作用なのだが、これに関しては第一〇章で考察することになる。


 ひとまずここでは、これまで幾度となく要求してきた道徳範囲の拡大が、動機発生条件の片割れである目的の共有をもたらしてくれることまではわかった。あとは手段の一致さえできたなら、動機の一致も夢ではなくなるだろう。

 だが道徳に要求される一致されるべき手段とは、それこそ拡大された道徳範囲にほかならない。客観的目的さえ共有されたなら、そのための手段がそれぞれ自由に選択されたとしても、道徳にとって不都合な事態は生じなくなる。目的を見失った状態では対立した目的をもった人どうしが調停されるのは難しいけれど、目的を明確にするならその可能性も生まれてくる。他律や道徳命令は、そうした可能性を閉ざしてしまうことがわかる。


 自律のためには、なぜ道徳的でなければならないのかをみずから考え、自分の頭で納得する必要がある。そのための思考過程をこうやって書き残しているのも、その思考を追施行することが、人の自律に役立つだろうと考えるからだ。

 道徳は決して、常識などではない。道徳が利益をもたらすことが納得できた人だけが、道徳的になりうるのだ。

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