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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第七章 感情を意味づける
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性格、理性と感情の関係

(性格について)

 これまで生きてきた中で経験してきた快不快の感情が、われわれの「性格」を形成する。というのも性格とは手段の好みそのものをいい、ある場面でどのように反応するかの傾向を示すものにほかならないからだ。

 もちろん遺伝的に組み込まれているような快不快の条件もあるだろうから、性格のすべてが後天的な経験のみで決まるとまではいえない。たとえば「遺伝子は(集合的に)、人によって、脅威により強く(あるいは弱く)反応し、目新しい物、変化、初めての経験にさらされると快をより少なく(あるいは多く)感じる脳を生む」(*1)

 それでも現実になにかしらの経験をしない限りは、快も不快も感じることはない。具体的にどのような経験をするかは、自分がおかれている環境に大きく左右される。そのためたとえ遺伝によって快や不快の感じやすさ(確率)が決められていたとしても、最終的な性格が経験という偶然的な要素に依存していることには変わりない。


*1 ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』429頁。


(性格を変える)

 性格を変えるというのは簡単ではないだろうが、だからといって不可能というわけでもない。ただしその際には一つ注意点がある。

 人の行動にはその人の性格が影響するが、人の性格にはその人の過去の行動の結果として生じた快不快の感情が影響している。そうすると新たに快不快が生じない限り人の性格は変化しないのだから、人が自身の性格を変えようとする、すなわち新たに快不快の印をつけようとするには、変わろうと決意するだけでは足りず、実際にそれまでと異なる行動を起こして、異なる結果を生じさせることが必要となる。

 まだ実行したことのない行為に快の印をつけようと思っても、快の印をつける対象である行為の記憶が存在しないのだから、印をつけようがない。アリストテレスのいうように「性向は、その性向と同じような活動から生じるのである」(*2)

 同様に間違った行為に不快の印をつけるにも、実際の経験を必要とする。ただしだからといって(悪い行為をしたがらないような)善い性格になるためには、実際に悪い行為をしなければならないというわけではない。

 なぜなら不快の印がついた行為も、不快感を伴ってとはいえ、その都度手段候補になりうる形で頭に思い浮かぶようになることには変わりないからだ。それよりは一度も悪い行為を試してみたことがなく、そのような行為をするという発想にさえならない方が、悪い行為をする確率が低いという意味では、善い性格に違いない。


*2 アリストテレス著、渡辺邦夫・立花幸司訳『ニコマコス倫理学(上)』光文社古典新訳文庫、2015年、104頁。


(理性と感情)

 ところで本章で説明してきたような欲求や感情は、しばしば理性と対立させられる。道徳をもたらすものは理性か感情かという問題は、道徳を巡る伝統的な論点の一つになってきた。カントは感情に動機づけられた行為は道徳的に間違っていると考えたが、フランシス・ハチソンやヒューム、アダム・スミスといったスコットランドを中心とした道徳感覚学派の哲学者たちは、反対に感情こそが道徳を基礎づけると主張していた。

 だがその際に念頭に置いておきたいのは、理性や感情、欲求といった人間に備わっている個々の機能は、どれも同じ目的のための手段にすぎないということだ。そのためどれも、正しい使い方、間違った使い方というものがある。

 理性と感情の一方だけがつねに道徳にとって有用で、他方がつねに道徳にとって都合の悪いものというわけではないだろう。もしそうだったとするなら、道徳に有用かどうかは生存に有用かどうかに直結するのだから、道徳に反する機能はすでに進化の途上で廃れていたに違いない。

 どちらも道徳に有用だからこそ、われわれ人間に機能として備わっている。ミルが指摘しているように「理性は私たちに正しい目的を教え、どのようにその目的を達成するかを教える。しかし、私たちがそうした目的を欲求する場合、この欲求は理性ではなく感情である」(*3)

 もし人間が不老不死になるようなことがあったなら、その人間はおそらくなにも考えず、あらゆる感情をなくし、一切の行動を停止することになるだろう。不老不死になりたての間は楽しく動いているかもしれないが、そのうちなにもかもに飽きてしまうこと請け合いだ。

 人が行動するのは生きるためで、ゆえに人を動かす感情も、生きるためにある。なにもしなくても生きていけるのなら、いったいどこに動く必要があるというのだろうか。ほかの人からなにをされても生きづらさを感じないなら、どうして怒る必要があるのだろうか。なにを失っても生きていけるのなら、どうして悲しむ必要があるのだろうか。なにがなくても生きていけるのなら、どうして欲求する必要があるのだろうか。

 自分にとってどんなことも生存上のリスクにならないなら、なにかを苦痛に思う意味がなく、他者に共感することも必要なくなる。どのようにしても生きていけるのなら、どのように行動したら生きていける確率が高くなるのかを考える理性もいらない。過去の経験を参考にする必要もないから、日々の出来事を記憶することさえやめるだろう。

 記憶をしないなら当然、記憶につける印である快や不快も必要ない。快や不快がないなら、幸福感というものも、一切なくなるだろう。せっかく不死になったのに、そのせいで生きようという気持ちさえ、失ってしまうことになりかねない。

 もちろんそんなことには絶対にならないから、安心していい。人は決して不老不死にはなれない(少なくとも、なる方法は見つかっていない)。ゆえに理性も感情も、人間にとって欠かすわけにはいかないものだ。

 理性や各種感情は決して対立するようなものではなく、同じ目的に向かって協働する関係にある。ダマシオがソマティック・マーカー仮説を導いた研究を通して主張しているのは、合理的な思考をするには情動が必要だということなのだ。

 もちろん彼は、情動さえあれば合理的な思考をするには十分だといっているわけではない。理性を十分に働かせなければ、感情に振り回されて誤った判断を下すことはありうる。あくまでどれも有用な部分があるために、人間にそのような機能が備わっていると考えるべきだろう。だからこそ人は、それぞれの正しい利用法を理解し(これは理性の仕事)、賢く使っていかなければならないのだ。


*3 J・S・ミル「セジウィックの論説」[1835、59、67年]『功利主義論集』32頁。

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