快不快のその他の概念との関係性(2)
(快不快の個人差と時間的変化)
時が変われば、事情も変わる。事情が変われば志向する経路も変化し、なにに快や不快を感じるかの条件も変化する。
同じように人によって構成されている経路は異なるので、なにに快や不快を感じるかの条件は、人によって異なる。経路中に含まれている項が異なれば当然、なにによって目的が促進されるかも異なるからだ。
つまりなにに快不快を感じるかは、経路選択の仕方によってさまざまに変化し、人によって、あるいは同じ人でも時と場合によって異なってくる。基本的欲求を満たしやすい手段など、多くの人に共通して快をもたらすものもあるにせよ、それさえもいつでもどこでも誰であってもというような、完全な普遍性をもっているわけではない。
そうなるとやはり、快不快そのものは客観性という点で、快楽主義で考えられているような行為の基準とするには心許ないといわざるをえない。
(快不快と善悪)
快不快などの感情は、客観的に善い目的と悪い目的を区別しない。たとえ快をもたらした経路が主観的目的につながっていたとしても、その経路に十分な正当性があるとは限らない。快はその仕組み上、不道徳な行為でも感じる可能性があるのだ。不快もしかりで、正当な行為に対して不快感を覚える人もいるだろう。
たしかに「悪は人を不快にさせる」という命題は、おおむね正しい。悪とは普遍的な正しさを備えた客観的目的に反するような手段のことなので、普遍的な正しさをもつ客観的目的を志向する人は、悪に不快感を覚える。
ただし悪でないものが人に不快感や苦痛を与えるようにみえることもある。つまり誰かにとって悪ではないものが、別の誰かにとっては悪のようにみえることもある。このことは正しさや悪の普遍性に、疑義を生じさせるだろう。
だがよくよく見てみると、誤った経路の選択に悪でないものが合わさったことで不快感を覚えていたり、悪でないものに誤った推論がなされる(落ち着いて考えてみればそれが原因でないとわかるものを原因として考えるなど)というような、複数の原因が合わさったことで生じた感情だということがわかるだろう。
そのようなときに不快感や苦痛を取り除こうとするならば、誤った経路の矯正や、より多くの情報を得てから、思い込みを捨てて推論し直すということが必要とされる。
(不快感と害)
このようになにに快不快を感じるかは、選択されている経路に依存し、その経路は道徳範囲によって価値に違いがでることから、不快感を与えることと害を与えることは決して同じではないことがわかる。
とはいえ不快感を与えることが、直接的に害を与えることになる場合もある。たとえば職場で起きたハラスメントについて考えてみよう。
人が通勤するのは当然、それが生きることに必要だと判断し、項として経路に組み込んでいるからにほかならない。にもかかわらずその職場で強烈なハラスメントがおこなわれて、強い不快感が生じるとしたら、職場での労働行為に対して、不快の印がつけられるということにもなりかねない。そうすると生きるために必要な労働という行為が、しづらくなることだろう。場合によっては精神的な故障によって、その後の人生全般に悪影響が与えられることもある。
いずれも経路の実行に支障を来すことになるので、自由の侵害となるのは間違いない。必要な行為に不快の印をつけざるをえなくなったり、精神的な調子も含めた自身の状態が望まぬ状態にされるのは狭義の危害にあたり、さらに不快感によって実際に必要な行動が制限されるのだから、このような後遺症も含めて、強度の不快感は二重の危害を加えることになる可能性がある。
(手段としての不快感)
その一方で人は必ずしも不快なことを避けようとはしないということも、注目に値する。
たとえば過去にあった嫌な出来事を思い出すのは不快なことだが、そのような記憶ばかりが思い出されて、なかなか忘れられないということがある。ここではあきらかに不快な記憶を避けるどころか、(無意識によるものとしても)みずから積極的に思い出しているようにみえる。これは必ずしも自発的な行為ではないかもしれないが、少なくとも人間の身体がそうなるようにできていることはたしかだろう。
おそらくはみずから思い出して不快な思いをすることで、その記憶に不快の印をつけているのだと思われる。みずからの目的に反する結果をもたらした出来事、たとえばその際にとった自身の行為や、その出来事をつくり出したと思われる特定の登場人物、あるいは状況そのものなどの記憶に不快の印をつけることで、将来的に類似の状況になった際に、当時とは異なった手段を採用する確率を高め、同じ轍を踏まないようにすることが目的だ。
人は必ずしも不快なことから避けようとしているわけではなく、不利益を避けるための手段として、不快という感情を利用する。ただしこの仕組みが強く働きすぎた場合には、心的外傷後ストレス障害(PTSD)になったり、頻繁にフラッシュバックが生じたりして、日常生活に支障を来すことがある。
(不快と苦痛)
苦痛はもちろん不快な現象ではあるが、快と欲求が別物なように、不快と苦痛も異なるものと理解すべきだろう。
苦痛は発生したその場に避けるべき状況が現にあり、即座に人の意識に逃避などの行動を促す。これに対して不快の感情は記憶にかかわり、実際にはまだ問題が生じていなくとも、不利益をもたらす可能性があるというだけで、未来の避けるべき状況を避けるため、将来的な行動に間接的な影響を与える。
いずれにせよ不快と苦痛は、それぞれ異なる役割をもっているというだけで、どちらも人が幸福になるのに必要な感情だということには変わりがない。ネガティブな感情とはいえ、ただ闇雲に避ければいいというものでもないのだ。
(快楽主義に不快でなく苦痛が用いられる理由)
おそらくはこうした違いに、快楽主義で用いられる基準が「快楽と不快感」ではなく、「快楽と苦痛」とされる理由がある。
不快感は人をすぐさま行動に駆り立てるわけではないため、苦痛に比べると強度が弱く感じられ、喫緊の問題を表しているようには思われない。それに対して苦痛は、その場に行動を起こすべき理由が現前しているため、少しでも早くその原因を取り除こうとする<欲求>を発生させる。
なんにせよ欲求を満たすことを幸福だとみなすことで、欲求を満たした際それに役立った手段に印をつけるため生じる快楽と、苦痛を逃れようとする欲求を満たすことが、直接的に幸福にかかわる二大要素とされたのだろう。
欲求は目的を提示する感情で、目的が促進されることを利益というのだから、快楽の増加と苦痛の減少を利益と同一視して幸福なのだと主張した快楽主義の考え方にも、それなりの理由はあるとみえる(あくまで必然性をもたらす要因があるというだけで、正当性があるとはいっていない)。
(各概念と感情の関係性)
さてここで今一度、各種概念と感情の関係を整理しておこう。
快楽は<欲求の結果>で、苦痛は<欲求の原因>なので、結果なのか原因なのかという違いはあるにせよ、どちらも欲求と因果関係で結ばれている。欲求は目的との間に、前者が後者の手段になっているという意味で、手段―目的の関係で結ばれている。
目的に照らし合わせることで幸福という状態が判断されるのだから、目的と幸福も因果関係(目的が幸福の原因)で結ばれている。利益も同様で、目的を目指した結果として得られるものだ。幸福が目的が促進されている状態を示しているのにたいして、利益は目的が促進されたという判断結果、あるいは自身が得たものを表現している。
利益をもたらしたものに対して、価値という性質が付与される(価値は対象に帰属するが、利益は自身に帰属する)。そのため利益と価値には、原因と結果の関係がある。価値は過去の利益の結果であると同時に、将来の利益の原因となる。
価値が主観的目的に対するものとして使われる概念だということに対して、善悪は客観的目的に対するものとして使われる。客観的目的が促進されれば主観的目的も促進されるため、善悪は価値(あるいは負の価値)の一種だといえるだろう。
このようにそれぞれの概念や感情は、密接な関係で結ばれている。密接な関係にある概念は混同されやすい。ベンサムは動機や行為は快苦痛と区別できていたが、価値や善悪や利益や欲求はそれらと区別しなかった。
だが特に利益を快苦痛と区別することは、正しい判断のためにも非常に重要だ。その区別の必要性を表す一例に、前章で説明した更生者を称賛することへの不満を解消することがある。
快と欲求の区別も、現実の人間の行為を理解することに役立つだろう。人は欲求に逆らうのは困難なことがよくあるが(依存症など)、たんなる快楽に逆らうのは比較的容易にしてのける。




