快不快のその他の概念との関係性(1)
(快と幸福・利益)
快を感じることと、幸福は異なる。だがなにかしらの目的が促進されると快を感じるということは、主観的目的が促進されても快を感じるということだ。だとしたら結局は快を感じることと幸福を同じこととしても、なんの問題もないのではないだろうか。
しかし逆は必ずしも真ならずであって、快を感じたからといって、主観的目的が促進されたことを意味するとは限らない。性犯罪をおこなえばたしかに快を感じることができるかもしれないが、性犯罪をおこなうことがどのようにしてその人の生存確率を高めるのかを考えれば、そのことはすぐにわかる。
性欲も人の意識下に目的を提示し、欲求や感情は意志構築の原因としてしばしば無意識的に発生するものだが、正しい目的につながる経路の構成を保証するものではない。その快をもたらした欲求が、さらに上位の目的につながっていないという可能性、つまりその欲求を満たした意味がないという可能性もあるのだ。この場合快が生じたにもかかわらず、幸福を得られていないということになる。
快とはその感情が印づけられた手段が目的に役立つ可能性があることを知らせてくれるものなので、なにに快を感じるかは、なにを目的として意識しているかで変化する。間違った目的をもつ人なら、間違ったことに快を感じることもあるだろう。間違った目的とは利益にならない(あるいは不利益になる)目的のことなので、間違った目的に役立つ手段に快を感じる場合、その快は利益をもたらすことに役立たない。反対に正しい目的をもつなら、快と利益の一致が期待できる。
さらにはたとえ正当な経路だったとしても、それがもっともよく目的を促進する経路だとは限らず、それ以上に大きな利益を得られる経路がほかにあるかもしれない。
快の経験にしたがって行為するということは、今までどおりに行動するということでしかない。現状この上なくうまく人生を渡ってきていて、なにも変える必要がないというならそれでいいかもしれないが、少なくとも快楽に頼り切った行動をしている限りは、それ以上の人生は望めないだろう。
ただ受動的に快の経験に踊らされるよりも、理性を使って効率よく目的を促進するようにして、結果的に快の経験を得るように行動した方が、ずっと大きな利益を得られるようになるはずだ。
(快不快と環境の相互作用)
快不快の記憶を頼りに選択した行為には、つねに空振りに終わる可能性がつきまとう。
みずからの意志(行為)のみによって引き起こされたように見える結果でも、実際は把握しきれないほどさまざまな原因が総合されて生じたものであり、結局は偶然の産物でしかない。にもかかわらず快不快の印は、無数の原因のうちのたった一つの手段(原因可能性)にだけ付与される。
そのためほかの原因(環境)が変化した場合、たとえ以前に快をもたらしたことがある行為でも、二度目、三度目も同じように快をもたらしてくれる保証はない。
(快と必然性、確証バイアス)
前述したような因果的必然性の性質があるために、意図したとおりの結果が出れば人はその結果を必然的なものだと認識するのに対し、自分の意図したとおりの結果が起こらなかったときには、人はその結果を偶然で片付けてしまいがちだ。
これは一種の確証バイアスといえるだろう。ヒュームはいう。「何らかの対象を考察することから、その直後に続くもの[の考察]に進むほうが、その対象に先行したもの[の考察]に進むより、はるかにたやすい」(*1)
原因と結果の関係には、必ず前者が後者に先行するという性質があるので、原因から結果を推論するのは簡単だとしても、結果が生じてからその原因を考えることを人は苦手とする。そのためなんらかの結果が想定外のものになったとしても、その想定をもたらした考え方に誤りがあるとは、あまり人は思わないものなのだ。
加えて自分の考え方を変えるというのは、自分の状態に対するたんなる追加ではなく、削除してから追加する修正を必要とするため、特定の記憶を消す手段をもたないわれわれには、なんらかの事実から一つの考え方をたんに構築するよりも困難ということもある。
こうした事情があるために、人はしばしば一度成功しただけのことを、その後に何度失敗してもたまたまだと考え、同じ失敗を繰り返す。快不快の記憶、つまり過去の成功(失敗)体験に頼りすぎると、結果的に大きな損失を被る可能性がある。
*1 デイヴィッド・ヒューム著、石川徹・中釜浩一・伊勢俊彦訳『人間本性論 第2巻〈普及版〉 情念について』法政大学出版局、2011年/2019年[1739年]、179頁。[]内は邦訳者による補足。
(快不快と慣れ)
変わらず目的を促進するようなものだったとしても、慣れたことによって快楽を感じづらくなるということがある。
なぜ手段に快の印が条件づけされるのかというと、将来的にその手段が再び目的促進に役立ってくれる確率が高い場合、その手段が選択される確率をあらかじめ高めておけば、将来の結果がよいものになる確率を高められるからだ。
そうなるとたとえ今は快をもたらし続けてくれているように思えるものでも、それが存在しているのが当たり前になれば、将来的な行為の必要がなくなるため、快の感覚は徐々に減少していくだろう。行為は、世界(環境)のなんらかの傾向を変化させるためにおこなわれる。なにもしなくても好ましい状態が続いてくれるなら、なにかをする必要はない。なんらかの行動を特にしなくとも、なにかが自身の目的を促進し続けることが予想されるなら、そのなにかに対して未来の行動の準備としておこなわれる印づけをする必要性はないだろう。
不快の印の場合だったとしても事情は同じで、状況に慣れたり、変えることが不可能だと判断し諦めることによって、本来は不利益をもたらすものに対してでも、不快に思うことをやめることがありうる。やはりこちらも自発的な行動が問題の解決(目的に反する結果の回避)に役立たないなら、手段への印づけが無意味になるためだ。
こうした場合はしたがって、快不快と利益が比例しない。つまり主観的目的を促進しても快を感じず、主観的目的に反するものであっても不快を感じないということになる。ここからも快不快を利益や不利益と同一視すると、判断を誤りうるのだということがわかる。
「幸せはすぐそばにある」という主張が支持されることがあるのは、すでに存在が当たり前になったことで、もはや快を感じなくなっているとしても、それでもいつも自分の生存を支えてくれているものに自分は囲まれているということに、気づかせてくれる言葉だからだろう。
新たな快を求めるのではなく、現に役立っている人やものがあり、それらの存在は当たり前ではないのだと認識するなら、そこにまた快が生じはじめたとしてもおかしくはない。ただ人間という生物はなかなかドライにできていて、支えてくれているのが当たり前のものにはなにも感じなくなるのが普通だといっていいと思われる。
(快楽主義のパラドックス)
以上のことから判断されるに、過去に快楽を得たことのある行為を何度も繰り返していると、状況が変化したためにもはや目的を促進しなくなっていたり、目的を促進しても慣れてしまった(その行為をすることが当たり前になった)りして、いずれは快楽を感じなくなることが予想される。
そのため過去の経験をもとに快楽そのものを求めて行動していると、逆に快楽の量や頻度が減少するという事態が発生する。このことは快楽を求める行為がむしろ快楽を減らしているという意味で「快楽主義のパラドックス」と呼ばれる。
ここからわかるのは、快は目的に役立った結果として生じるべきものであって、それ自体を積極的な目的にするべきものではないということだ。




