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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第七章 感情を意味づける
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快不快と欲求の関係

(欲求の定義)

 人に行動を促すのは手段ではなく、目的だ。したがって欲求が(欲求充足という)目的を、快楽がそのための手段候補への評価を、意識下に提示する役割を負っていると考えていいだろう。


(不快な手段への欲求)

 そう考えることで、なぜ前述の実験におけるラットが、食物を求めることが不快なことにもかかわらず食物を欲し続けたのか、なぜ欲求なしでは快を得られるとわかっている食物を求めなかったのかも理解できる。

 欲求が働けばすでに目的が意識下に提示されているので、その時点で目的を求めないという選択肢が存在しなくなる。そのため不快な結果を過去にもたらしたとわかっている手段だったとしても、それ以外の手段が存在しないのなら、その唯一の手段を採用せざるをえない。

 人間でもたとえば、どうしようもなくのどが渇いてしかたがないときに、飲み物を求めて飛び込んだ店に昔から苦手なブラックコーヒーしかなかった場合を考えるなら、状況が理解できるだろう。以前飲んだときに不快な思いをした記憶があったとしても、周辺に別の店が見当たらなくほかの手段がないようなら、渋々購入し、背に腹は替えられぬと苦いのを我慢して飲むということもありうる。


(不快の有効条件)

 よって不快の印が役に立つのは、それよりはましな代替手段の存在を知っているときに限られる。メロンソーダとブラックコーヒーのどちらかを選べるなら、過去の経験から不快な思いをさせてくるだろうと予想できるコーヒーを避け、メロンソーダを選ぶに違いない。満腹になっても食欲がおさまらないラットだって、もし点滴を打てば食欲がおさまるということを知っていたとしたら、食物ではなく点滴を求めていたことだろう。

 この代替手段は、不快な手段よりもあきらかに悪いものであってはならない。たとえばいくらのどが渇いていて、以前にブラックコーヒーで不快な思いをした経験があるからといって、代わりに硫酸を飲もうとする人はいない。人は快不快のみで手段を決定しているわけではないし(手段の思いつきやすさに影響し、過去の経験的事実に裏打ちされたものとして参考にするだけ)、主観的目的は必然的な目的だから、いくら不快な思いをすることを避けるためだとしても、主観的目的に反する手段を実行するわけにはいかないのだ。


 この点について、現実でちょうどいい事例がある。それはコロナ禍で行政から飲食店等へ休業要請が出された際に、営業を継続している店舗に対し、自粛を強要しようと嫌がらせをする者が現れたというものだ。そうした人たちはインターネットなど世間上で、自粛警察などと揶揄された。

 これは一見すると社会上のリスクを減らすため、社会の感染リスクを減らすための行動であり、道徳的な行為にも思える。なぜ問題視されたのだろうか。

 こうした行為の問題点は、相手側に代替手段がない状態でおこなわれた、ということにある。嫌がらせの(少なくとも建前上の)目的は、相手に不快感を与えることによって、営業継続という手段に不快の印をつけさせ、異なる手段(休業)をとらせようとすることだったと思われる。

 しかし不快の印は、よりよい代替手段がなければ意味がない。もし休業すると生活が成り立たなくなるなど、その人の主観的目的と両立できないような事情があるなら、いくら不快感を与えようともその行動傾向を変化させることはできない。

 ならばそうした判断を変えるために必要なことは、決して単純な嫌がらせではなかったはずだ。すでに説明したように、特定の客観的目的を守ることがみずからの主観的目的に矛盾する場合は、そのような客観的目的(自分が道徳範囲に含まれていないような客観的目的)を守らなければいけない理由はない。そのような行為を他者に強要する権利など誰にもないし、もし強要するとなると、逆にその強要が完全義務違反となる。

 したがって十分な休業補償を受けられるようにするなど、休業しても主観的目的と矛盾しないようにすることで、休業という手段の選択を可能にしなければいけなかった。その不快感を避けるための適切な代替手段を用意せずに不快感を与える行為は、逃げ道のない袋小路に追い込んでから攻撃を加えているようなもので、端的に客観的目的に矛盾する。

 休業補償が十分にされて店を閉めることが可能な状態にあるにもかかわらず、営業を継続した方がより多くの儲けを得られるというだけの理由で営業を継続する企業が出てきた場合にはじめて、非難したり罰したりといった、不快感を与える行為に意味が出てくる。


(欲求の欠如)

 欲求のないラットの行動については、どう説明できるだろうか。

 欲求がなければ目的を求めること自体がないのだから、いくら過去になんらかの目的を促進して快さを感じた手段の記憶があったとしても、その手段が採用されることはない。たとえばいくら焼き肉がおいしかった記憶があるからといって、風邪を引いて食欲がわかないときにまで焼き肉を食べようとは思わないだろう。


(先天的な快不快)

 欲求のないラットが甘さや苦さに対して快不快の表情を示したのは、特定の事象に対しては自動的に快不快を感じるように、遺伝的にできているということだろう。

 快不快の多くは実際に目的を促進したことがあるかどうかという、経験的に学習したものだと思われるが、たとえば腐った肉や吐しゃ物、近親相姦に対する不快感のように、進化の途上で備わった先天的な機能と思われる不快感もある。

 これらの不快感は環境的な偶然性の影響をあまり受けずに、生存や子孫を残す確率を高められる。だからそうした機能の獲得を、わざわざ後天的な学習に頼らなくてはならなくする理由がない。

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