ソマティック・マーカー仮説とギャンブル実験
(ダマシオのソマティック・マーカー仮説)
ある程度快不快の感情の役割について自身の考えをまとめたあとになってから、神経科学者のアントニオ・ダマシオの主著『デカルトの誤り』を読んだ。この著書のこと、そしてその中でダマシオがフィネアス・ゲージの症例――彼は19世紀に事故で鉄の棒が脳を貫通しながらも奇跡的に生存したが、脳損傷のために長期的な計画に沿った行動ができなくなっていたり、特に倫理面における性格が劣化するなどの人格の変化が生じた――を研究していたことは、ジョシュア・グリーンの『モラル・トライブズ』で紹介されていたので知っていた。
実際に読んでみると驚いたことに、この中でダマシオが提唱している「ソマティック・マーカー仮説」が、前節で説明した快不快は手段への印づけだとする考え方と、非常に類似していることに気がついた。ソマティック・マーカーのマーカーとはMarker、つまり印をつけるものという意味だ。
だがダマシオの考え方とわたしの考え方には、決定的な違いがある。
ダマシオによると快や不快といった「情動と感情は〈学習により、いくつかのシナリオの予測される将来結果と結びついてきたもの〉だ。ネガティブなソマティック・マーカーが特定の予測結果と並置されると、その組み合わせが警報として機能する。反対にポジティブなソマティック・マーカーが並置されると、それは誘因の合図になる」(*1)
彼の考えだと手段ではなく、結果に印づけがなされる。だが結果というものは、これまでさんざん述べてきたように、特定の原因との間で一対一で対応するようなものではない。かつてはその結果をもたらした原因でも、別のときに同じ原因から同じ結果が生じる保証はどこにもない。そのためかつての「結果」の想起では、これからよい結果を生むことにはそれほど寄与できない。
ダマシオによればソマティック・マーカーは「いくつかのオプション(危険なもの、または好ましいもの)を際立たせ、その後の考察からそれらをすばやく除去または選択することで熟考の手助けをしている……それを一種のバイアス装置と考えることもできる」(*2)
一種のバイアス装置と考えることには賛成だが、その印はかつての結果に由来してはいても、オプションそのものをマークしていると考える方が、シンプルだし実感に合うように思われる。
実際好ましかったり不快だったりするものがもたらす具体的な結果には思い至らなくても、それ自体が好意を抱かせてきたり、不快感を与えてくるようなものもある。嫌な感じというものは、それがどのようなまずい結果を生み出す傾向にあるのかを知る前に、「なぜまずいのかはわからないけど、なんかまずそうだ」ということだけを先に教えてくれるものなのだ。
そのためなんらかの手段が好ましかったり不愉快なことが直観的に知れても、その手段がもたらす帰結は、再推論しなければわからない。同じ手段でも状況が違えば異なる結果をもたらす可能性があるために、そのような仕組みになっているのだろう。
推論によってその場に合わせた結果予測ができるなら、過去の結果へのマーカーは必要ない。よい結果や悪い結果がもたらされたことがあるということさえわかれば、その結果の具体的な内容を思い出すことにはたいして意味がない。というのも知りたいのは過去の結果ではなく、これから生み出される結果の方だから。もし過去に予測した結果に印づけがなされるなら、実際よりも見当違いな行動をする人が多発していたに違いない。
*1 アントニオ・R・ダマシオ著、田中三彦訳『デカルトの誤り』ちくま学芸文庫、2000年/2010年[1994年]、272頁。
*2 同、272~273頁。
(ギャンブル実験)
快や不快といった感情が意志決定に作用するには、ジョシュア・グリーンのトロッコ実験でも出てきた前頭前野腹内側部(VMPFC)の作用が欠かせない。フィネアス・ゲージが「社会的慣習を重んじ、倫理的に行動し、自分自身の生存と発展に有利な意志決定」(*3)をすることができなくなったのは、この部位の脳損傷によるものだったということを、ダマシオらの研究があきらかにしていた。
VMPFCを損傷した患者の意志決定の仕方を知るためにダマシオらがおこなった、非常に興味深い実験がある。研究生のアントワーン・ベシャーラが考案したもので、「ギャンブル実験」と呼ばれる。
この実験では元手になる2000ドルの模造紙幣と、A、B、C、Dとラベルづけされた四組のカードが用いられる。このうちAとBの組のカードはどれをめくっても100ドルを受け取れるが、そのうち何枚かのカードは1250ドルという高額の支払いをプレーヤーに要求する。組C、Dのカードはどれをめくっても50ドルしかもらえないが、そのうちの何枚かに要求される支払いは平均して100ドル以下で済む。
つまり前者はハイリスクハイリターンで、後者はローリクスローリターンとなる。前者のリスクがあまりに大きいため、長くプレイすればするだけ、後者の組からカードを引き続けるようにした方が、最終的な利益は大きくなるだろう。
この規則はプレーヤーには知らされずに、ゲームはスタートする。普通の人ははじめ、まずは四つの組すべてをめくる。そして報酬の多さから組A、Bを好むが、高額の支払いを要求されてリスクの大きさを思い知り、30回以内に組C、Dに変え、ゲームが終わるまでこの戦略に固執する。だがVMPFCを損傷した患者たちは、一貫して組A、Bを多めにめくる。にもかかわらず患者はゲーム終了時、どの組がよくて、どの組が悪いかを知っていたという(*4)。
この実験の解釈は、次節にておこなう。
*3 ダマシオ『デカルトの誤り』55頁。
*4 同、323~327頁。




