快不快とはなにか
次に快楽と欲求について考えてみよう。
快楽は一般的に、なにかしらの欲求を満たしたときに発生する。欲求は苦痛と同じく、人を行動に駆り立てる。食欲を感じた人は、なにかを食べようとする。だとすると人は、快楽を得ることを目的に、欲求をそのための行動をするための手段にしているということだろうか。
(欲求と快を区別する実験)
快と欲求は同じことのようにも思えるが、それぞれは異なる機能として動物に備わっているようだ。ラットを使った、次のような実験がある。
まずは前提情報として、ラットの脳の視床下部におけるドーパミン系を電気刺激すると、刺激と連合させた食物や性的対象を強く求めるような行動をすることがわかっている。またラットは快や不快を感じると、ヒトの乳児と同じように表情に表れる。
そこでラットのドーパミン系を電気刺激し、同時に食物と連合させると、満腹するにつれて嫌悪の表情を示すにもかかわらず、食物を報酬としてしきりに求めようとして行動する。逆にラットのドーパミン系を、神経毒によって選択的に破壊すると、このラットは食物、水などに興味を示さず、チューブで給餌しないと餓死してしまう。つまり欲求が働かない。しかし甘い物質や苦い物質を口に注入すると、それぞれに対応した表情を示すという。
前者の実験では快なしに欲求が、後者の実験では欲求なしに快が示されたことになる(*1)。
この実験結果からわかるのは、動物はたとえ不快な結果を生み出す行動だったしても、欲求が働けば行動に移るし、たとえ快を生み出す行為だとしても、欲求が働かなければ行動には移らないということだ。つまりあくまで行動を促すのは欲求であって、快ではない。この結果はあきらかに「自然は人間を苦痛と快という二人の至高の主人によって支配させている」(*2)というベンサムの考えに反するものだ(ラットの行動は快楽に振り回されるようなことはないが、人間は振り回されると考える理由もない)。
では快が行動を促す役割をもっていないとしたら、快はなんのためにあるのだろうか。
*1 鹿取廣人ほか編『心理学第5版補訂版』211頁。
*2 ベンサム『道徳および立法の諸原理序説(上)』27頁(第1章1項)。
(快不快の役割)
もしかすると快は、手段の選択にかかわっているのかもしれない。
次の例を考えてみよう。
街中をさまざまに巡って遊んでいたら、空腹が気になりはじめた。時刻は昼過ぎ。いい頃合いなので、そろそろどこかで腹ごしらえをしたい。手頃な店がないかと、周辺を探してみる。いくつかの飲食店が目に入ったが、どれも決定打に欠ける。そういえばつい先日に駅前のラーメン店で食べた、あの味噌ラーメンがおいしかったなあ。新しい店を開拓するような気分でもないし、この前と同じ店でいいかな。
この場合周辺から見つけた複数の空腹を満たす手段に対して、以前食べた味噌ラーメンがおいしかったという快の経験を思い出したことで、駅前のラーメン店の味噌ラーメンが手段候補に割り込んできた形になる。
となると考えられる快や不快の役割とは、過去に実行した手段の実績につける印に違いない。
(快不快と条件づけ)
目的を促進した(欲求を充足した)手段には快の印をつけて記憶し、目的に反する(経路の実行を阻害する)結果を生み出した手段には不快の印をつけて、脳にある記憶の貯蔵庫にしまい込む。
確定された経路のことを意志と呼ぶと前に述べたが、目的を促進するとは行動計画たる経路(意志)の一部が実行されて望みどおりの(経路に整合する)結果が生まれたということなので、「意に沿う」結果が生じたと表現される。
なのでもう少し言い換えると、意に沿う結果が生じたなら快が生じ、意に反する結果が生じたときには不快が生じるということになる。
すると同じような目的を促進する必要性が生じた際に、手段候補を直接認知したり、連想等によって過去の経験から想起すると、その手段に印しづけられた快不快が反射的に生じる。もし快が発生したならその手段を有力候補にし、不快の印が発生した場合にはその手段を避ける理由とする。
実際人間も含めた動物は、なにかしらの行動をして快が生み出されるとその行動の頻度はその後増加し、不快な結果が生み出された行動の頻度はその後減少することがわかっている。これはそれ以前の経験から、統計的(とはいうものの、そのデータにはしばしば偏りが生じる)に学習した結果として手段を選択しているからだ。スキナー箱の実験で有名な学習方法で、オペラント条件づけと呼ばれる。
快不快の印は自身の行為のみならず、ほかの人や物にもつけられることがある。つまり自身の目的を促進するようなことをしてくれた人や物(の観念)には快の印をつけ、自身の目的に反するようなことをしてきた人や物(の観念)には不快の印がつけられる。
こうして前者ではその人や物に好きという感情がわくようになり、後者では嫌い・嫌悪という感情をもつようになる。
これは第三章でも説明したが、古典的条件づけによるものだ。以前に自身の目的を促進してくれた人や物は、その後も自身の目的を促進してくれる確率が高く、その人や物に接近する誘因が快の印により与えられる。反対に自身の目的に反することをした人や物に対しては、不快の印を付与することにより、なるべく回避するような負の誘因が与えられる。
印を付与する人や物のことを手段とみなせば、オペラント条件づけとやっていることは基本的に変わらない。




