苦痛について
苦痛に関しては、第一章ですでに触れた。生きるのに不都合な状況に置かれている場合に、その状況を脱する行動を人の意識下に促す感情が、苦痛と呼ばれている。
生きていることがつらいといった感覚は、今の状況が生きるのに不都合であるように感じているものの、その状況を脱する手段がうまく見つからないために、生きていること自体が苦痛の原因になっているかのように考えることから生じる。本当は自分を取り巻くこの世界の状態に苦痛の原因があるのに、生きていること自体にその原因があると考えるのは、たんなる原因推論の誤りによるものだ。つまり本当は生きづらさを感じているから苦痛を感じるのに、生きているから苦痛がある、あるいは苦痛があるから生きづらいと考えるというように、原因と結果を取り違えているにすぎない。
ミルと同じように「高等な能力をもつ者はそうでない者に比べて、幸福になるために多くのものを必要とするし、おそらくより多くの点でより強く苦痛を感じやすいだろう」(*1)と思っている人も多いだろう。これは「高い能力に恵まれた人は、自分の求めることのできる幸福は今あるがままの世界においては不十分なものであるといつも感じている」(*2)からだ。
たしかに今の自分になにか不足しているものがあることに気づけば当然、不足している現状を脱するべきものと認識するだろう。そのための行為を促そうと、無意識が意識下に対して苦痛を発生させる。ここまではミルのいうことは正しい。ただし苦痛を感じやすいことは、人を不幸にさせたりはしないし、たとえ高等な能力があったとしても、幸福になるために必要なものの量は変化しない(他者との関係性を通した影響はあるかもしれないが)。
*1 ミル「功利主義」『功利主義論集』268頁。もちろん「満足した愚か者よりも不満を抱えたソクラテスの方がよい」(同、269頁)という言葉で有名なミルなので、高等な能力をもつのが悪いことだといっているわけではない。実際引用文の直後には、「しかし、このような負担があったとしても、彼が下等とみなしている存在に身を落としたいと本気で望むことはけっしてない」と続いている。
*2 同、269頁。
もし苦痛があることが不幸なことだったとしたら、ひたすら現状を追認して、今のままで問題ないとすることが、不幸にならないために必要な態度だということになるだろう。苦痛を減らすことだけを目指すのなら、今の自分にはなにも不足していないと思えばいい。たとえ足りていないものがあったとしても、臭いものにはふたをして、ただただ見て見ぬふりをすればいい。
将来のことなどみじんも考えず、今がよければそれでいいとする刹那主義者は、快楽を得て苦痛を減らすことを目的にするなら、なんと合理的な態度なのか。だがそれが本当に、不幸ではない者なのだろうか。
サバンナで暮らしている動物は、一般的に肉食動物よりも、草食動物の方が視野が広い。これは獲物を狙う猛獣の餌食になる前に、そのリスクに気づきやすくするためだ。もしそのリスクに最初から気づかなければ、哀れなシマウマが腹を空かせたライオンの鋭い視線に恐怖するようなことはなかっただろう。
しかしその恐怖感情からくる苦痛が発生するおかげで、シマウマは素早く逃走行動に移ることができる。それによって生存確率が高まるのだ。
もしシマウマが苦痛を感じる能力をもっていなかったら、ライオンの存在に気づいたときにはすでに、その鋭い牙が自分の尻に深く突き刺さっていたかもしれない。痛みによる苦痛も感じられないせいで、後ろ足がなくなって歩けなくなっていることに気づいてようやく、身体の一部がライオンの胃袋の中に収まっているのを知るということもありえただろう。考えるだけでも恐ろしいことだ。少なくともわたしは、そのようになりたいとは思わない。
また知識を手に入れると視野が広がり、それ以前は気づかなかったようなリスクに、あるいは取り除けないと思っていたリスクを取り除く方法がありうることに、気づけるようになるかもしれない。その結果として苦痛は増えるが、その苦痛はより幸福になれる可能性を与えてくれる。
苦痛そのものによっては、人の幸福度はなにも変わらない。幸福と、幸福感は違う。本当に問題なのは、なにが苦痛を発生させる原因になっているのかだ。
火事になって火災警報器が鳴っているのに、その原因になっている火を消そうとするのではなく、警報器の音を鳴り止ませることだけに躍起になってもしかたがない。生きるのが苦しいから死のうとするのは、警報器の音がうるさいからと、警報器の電源を落として終わりにしようとするのと同じことだ。
結局重要なのは、取り除くべきは苦痛自体ではなく、苦痛をもたらしているなにかだということだ。苦痛の原因がなくなれば、どのみち苦痛は消えてなくなるのだから。




