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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第七章 感情を意味づける
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功利性と感情

 人がどのように行為していくべきかを問題とする規範倫理学は、おおまかに三つの立場に分かれる。

 道徳をたんに義務として捉える義務論(カントが代表)、最大多数の最大幸福が実現されるような結果を求めるべきとする功利主義(ベンサム、ミルが代表)、徳の観念を中心に倫理を考える徳倫理学(アリストテレスが代表)(*1)だ。


*1 徳倫理学にはアリストテレスの系譜以外にも、さまざまな時代や地域の思想が含まれる。必ずしも統一的な体系に属していない徳倫理学の定義に関しては以下で議論されており、参考にした。クリスティーン・スワントン「徳倫理学の定義」ダニエル・C・ラッセル編、立花幸司監訳、相澤康隆+稲村一隆+佐良土茂樹訳『[ケンブリッジ・コンパニオン]徳倫理学』春秋社、2015年[2013年]、479~513頁。


 本稿の理論は、道徳を所与の目的を目指す手段として位置づけている。だとすると人間にとって生きることは義務として与えられているわけで、そのために最善の手段を実行することも義務に違いないと考えるなら、義務論的といえるかもしれない。

 また本章や次章で触れるが、行為者の性格はどのような意志が構築されるかの原因となる。行為の動機はどのような経路が選択されているのかを示すものなので、行為ではなく行為者の内面の善し悪しを徳という観念を用いて評価しようとする徳倫理学もまた、本稿の理論の一部をなしているといっていい。

 加えて最大多数の最大幸福を目指すことと、客観的目的を促進するように行動することは、当然ながら両立する。客観的目的を促進するとは、あらゆる人の主観的目的を促進していくことにほかならず、主観的目的が促進されることは幸福なことだから、客観的目的を志向することは、最大多数の最大幸福を目指すこととほとんど同じ意味をもっている。


 もう少し厳密にいえば、客観的目的を促進することが、最大多数の最大幸福の原因になるという関係がある。そして最大多数の最大幸福を目指すことは、主観的目的を促進する原因になる。したがってすべての人が幸福になれるよう行為するのは、あくまでみずからの幸福のためにおこなわれる。つまりは最大多数の最大幸福さえも、最終目的ではなく手段として扱われる。

 ベンサムは「人々の幸福を増大させるか、それを妨害する傾向があると思われるあらゆる行為を是認するか、否認する原理」(*2)を功利性の原理と呼んだ。彼によればこの原理の「直接の証明は不可能と思われる。というのも、他のすべてのことを証明するために使われる原理は、それ自体としては証明できないものだからである。証明の連鎖には、どこかに端緒というものがなければならない。この原理を証明することは不可能であり、不要である」(*3)

 主観的目的が人びとの幸福を増大させる行為が正しいことの根拠になることは、ここまでの議論で十分証明できたものと思われる。そのため功利性の原理が証明されたといっていいだろうが、それは主観的目的がさらに上位の原理として機能したことによる。そのためこのさらなる上位原理となる主観的目的の証明は、やはり「不可能であり、不要である」ことには変わりない。


*2 ジェレミー・ベンサム著『道徳および立法の諸原理序説(上)』28頁(第1章2項)。

*3 同、32頁(第1章11項)。



 功利主義について本当に問題となるのは、幸福という言葉でなにが意味されているのかだろう。

 ベンサムやミルの定義では、幸福は快楽が増えて苦痛が減ることであり、その逆が不幸だとされている(*4)。最大多数の最大幸福という理念には異論ないものの、功利主義にはこのようにしばしば余計なもの――快楽主義まで付属してくるのが通例となっている。

 これは本稿の定義とは異なる。第一章で説明したように、本稿では幸福を「生きるのに都合のよいこと」と定義した。主観的目的をよりよく促進できること、理性によって最適と考えられる経路が期待通りに実現されていること、生存確率が高いことなどと言い換えることもできる。

 とはいえ一般的にはたしかに、快楽を多く感じていれば幸せだと思いやすいだろうし、苦痛の多い人生を送っていれば、自分は不幸だと考える人が多いだろう。実際普段のわれわれは快楽を求めて行動しているようにみえるし、苦痛を避けることを目指して行動することが多いのも、経験からしてあきらかなように思われる。

 そのため快楽や苦痛を幸福の指標としたくなる気持ちも、わからないでもない。そこにはさまざまな感情や、利益や幸福といった物質に対応しない概念の入り組んだ関係があって、そのために本来異なる概念が混同され、同一視される。実際ベンサムは、恩恵や便宜や快や善や幸福について「功利性について考える場合には、これらはすべて同等なものとみなされる」と述べているし、害悪や苦痛や悪や不幸についても「これらもすべて同等なものとみなされる」としている(*5)。


*4 J・S・ミル「功利主義」『功利主義論集』265頁。

*5 ベンサム『道徳および立法の諸原理序説(上)』29頁(第1章3項)。


 だが異なる概念の混同は、しばしば誤謬を犯すリスクをもたらす。本章の目的は、幸福や利益に関係すると思われるさまざまな感情の役割を明確化し、それらを幸福や利益その他の概念から区別できるようにすることにある。

 もし快楽の増加や苦痛の軽減がわれわれの最終的な目的でないとしたら、快楽や苦痛すらもたんなる手段にすぎないと考えなくてはならない。だとするとこうした快楽や苦痛は、いったいどんな目的に、どのように役立つというのだろうか。

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