善意志による結果の必然性と称賛
意志のあり方を原因可能性として考慮することに関して、たとえば違法薬物の使用を考えてみよう。
そのような薬物を使用したことがない人の多くは、自分が違法薬物を使用した経験がないことは、道徳的なことだと考えているだろう。だが実際には、そうとは限らない。というのもたまたま薬物を使用する機会がなかったがゆえに、使用しなかっただけということもありうるからだ。
もし親しい友人が薬物の常習犯で、自宅までやってきて勧められたら? もし自分が幼い頃から実の親が薬物を使用していて、あなたが15歳の誕生日を迎えたときに、「江戸時代だったらもう元服の歳だから、これ成人祝いね」と言って薬物を渡してきたら? 薬物が当たり前の環境に慣れ親しんでいたら、世間的にはよくないことだとわかっていても、通常抵抗感は薄れる。それでも薬物の使用は絶対になかったと断言できる人が、どれほどいるだろうか。
カントはヒュームの因果論から大きな影響を受けているが、論理的必然性と因果的必然性の区別は採用しなかった。因果的決定論を否定していないことも合わせて考慮するなら、カントが道徳的行為のもつ必然性というとき(*1)、そのことが意味しているのは、道徳法則との間における論理的な必然性だったことだろう。
だが道徳が正当化されるのは道徳的な行為が生む傾向にある結果が、長期的に見てよいものとなる蓋然性が高いからだ。その結果は道徳的な行為から生まれ、その行為は道徳的な意志から生まれ、道徳的な意志は道徳法則に拘束されることから生まれる。道徳、道徳的な意志、行為、結果にはそれぞれ因果関係が認められるので、道徳の必然性とは、因果的必然性のことだと考える方がすっきりと理解できるし、カントの次の言葉ともうまく整合する。「罪なき長い人生をいかに多くのひとが送ろうとも、それは幾多の誘惑をただ免れたという幸運に恵まれてのことによるのであろう」(*2)
つまり多くの人が違法薬物を使用したことがないのは、あくまで環境に依存したものでしかなく、それはその人の意志以外の不特定な原因によるものなのだから、たんなる偶然にすぎない。その場合その人の意志は、道徳的だとはいえない。
*1 「義務とは法則に対する尊敬にもとづく行為のもつ必然性である」。カント「人倫の形而上学の基礎づけ」(野田訳)252頁。
*2 カント『カント全集11 人倫の形而上学』259頁。
ではどうすれば道徳的だと認められるのか。
あらかじめ薬物は絶対に使用しないと、心に誓っておくというのも一つの手だろう。そうすればたとえ薬物を誰かに勧められるような機会があったとしても、信念にしたがって断固として拒否することにつながる。薬物を使用する機会があるかないかにかかわらず使用しないのだから、偶然の環境に左右されることもなくなる。
そうなってはじめて、自分が薬物を使用してこなかったのは必然的なのだと、胸を張っていえるようになるだろう。「悪いことをする必要がなかった」から悪いことをしなかったのと、「悪いことをしないと心に決めていた」から悪いことをしなかったのとでは、今後への影響も考えれば、天と地ほどの差がある。
過去に罪を犯した人が更生したというようなネットニュースのコメント欄で「本当に偉いのは、一度も犯罪をしていない人だ」というような主張を見かけることがある。つまり罪を犯していない人ではなく、更生したとはいえ一度でも罪を犯したことのある人がほめられるのはおかしいということをいいたいらしい。普段は不真面目な悪い人がたまに善いことをしたら褒められやすいのに、いつもまじめにしている人はなかなか褒められないということも、まるで世の中の不条理かのように語られることが多い。
だが罪を犯していないことが必然的だといえるような意志のもち主からは、そのような不満は決して出てこないだろう。どのような環境にあるかにかかわらず、つまり称賛されるか否かにかかわらず、その意志のみによって正しく行動しようと決めている(これを「自律」という)からこそ、その意志によって引き起こされる行為が必然性を帯びる。正しく行動しようとして、正しく行動すること自体に価値を感じているなら、そのことに見返りを要求することは決してないはずだ。
罪を犯していないことが偶然的でしかない人には、その人が罪を犯していないことに対して「それは幸運だ」ということはできても、「あなたは偉い」だとか「称賛に値する」とはいえないし、いう必要もない。道徳に適合した行為が偶然にすぎない限りは、つまり状況によっては罪を犯す可能性をもっているままなら、その意志は社会にリスクをもたらしているからだ。その可能性がないなら、いったいなんのための称賛だろうか。
それに対して罪を犯した人が更生する場合のように、悪意志をもっていた人が悔い改めて、これからは正しく行動していこうと心に誓うことで善意志をもつなら、社会上のリスクは減少する。
前章で不完全義務には非難でなく称賛によってその行動を促進すると説明したが、これは称賛という行為がリスクを減らす行為を促進するためにあることを意味する。価値があることは称賛の十分な条件にはならず、<称賛すること>に価値がない限り、称賛することに意味はない。
その点悪意志を捨てて善意志をもちはじめた人には、そうした行為を続けさせようと、社会が称賛を与えることには意味がある。称賛がなくとも悪いことをしない人なら、そういう人を称賛するのが悪いというわけではないけれど、本来的には称賛は不要だし、本人も称賛されたいとは思っていないだろう(とはいえ第八章でも報酬との関係で説明している箇所があるが、これは完全義務に関する話であり、道徳のために積極的に行動する不完全義務を果たしている人に対してなら、そうした行為を促進するべく、積極的に称賛していくべきだろう)。
もちろん道徳的な価値を得るためには、すべての人が一度罪を犯して更生しなければならないというわけではない。称賛と価値は比例しない。なのでたとえわかりやすい見返りを得ることができないとしても、正しく行動することそれ自体に価値があるということをしっかり認識するなら、やはりその意志には価値がある。そうすることでみずからが正しく行動しているという結果を、必然的なものにできるのだ。そうした意志による必然性だけが、道徳的価値の源になる。
ちなみにその人の意志が罪を犯さないことの十分な原因であればいいのだから、たんなる決意だけではなく、罪を犯さないための対策をなにかしらおこなった結果として、罪なく生きているというのでも構わない。その対策も結局は、その人の意志からおこなわれていることには変わりないからだ。
このことは決して、以前から善意志をもっていた人が、損をしているということにはならない。かつて悪いことをした人間が更生を示す行為をすることで称賛されるのは、もし称賛をしなければ再び悪いことをするようになるのではないかという、ある種の不信感がその前提にあるためだからだ。反対に悪いことを一度もしたことのないような人が、悪いことをしていないという理由でほめられないのは、称賛されずとも当然に正しく行動するだろうという信用があるからにほかならない。
前者の人より後者の人の方が道徳的に望ましいのは、いうまでもない。そして信用は利益になるが、称賛されることは利益にはならない。なぜなら信用は他者の協力を得やすくすることに役立つが、称賛されることは少しの間いい気分に浸れるとしても、時間とともに過ぎ去るその場限りのものでしかなく、称賛されることで得られる快楽自体はなんの役にも立たないからだ。称賛されることを利益だと考えるのは、快楽と利益を混同することから生じる、たんなる錯覚でしかない(快楽に関して詳しくは、次章参照)。
ところでもしかするとトロッコ問題のポイント切り替えパターンにおいて、被害者の人数が価値判断に考慮されないとしたことで、連続殺人や大量殺人のようなケースにおける犯人の罪が軽くなるのではないかと、心配している人がいるかもしれない。その点に関しては、意志の問題として解決できる。
つまり連続殺人犯のような場合は、被害者の人数は犯人の殺人への躊躇のなさや、殺人を手段として採用する確率がそれだけ高いことを表しており、それだけ社会的なリスクが大きいこと、すなわち悪意志の度合いの強さを表していると考えられる。被害者の人数が直接に責任があるかどうかの根拠になることはないにしても、悪意志の度合いを証明するものとして、間接的に責任の評価に影響することはありうる。




