意志の価値
第三章で説明した因果的必然性の性質によって、悪意志によって引き起こされた被害は必然的だが、悪意志によるものにもかかわらず結果的に無害だったものは、たんなる偶然とみなされる。エリザベス・アンスコムがいうような「人は自分の悪い行いがもたらす悪い帰結に対して責任をもつが、その良い帰結が彼の手柄となることはなく、反対に、善い行為がもたらす悪い帰結に対する責任は負わない」(*1)といった考えは、こうした必然性がもたらされるかどうかという違いから生じる。
そのためもし悪意志をもっているとみなされる人が、他者に危害を加えるなら、その人が悪意志をもっていることはわかっていたのだから当然だろうと人は考える。反対にもし悪意志をもっている人が問題を起こさずに日々過ごしていたとしても、それはたまたま(偶然)問題を起こしていないにすぎない。問題行為をいまだ起こしていないのは、なにか別の原因と合わさってそうなっているだけで、悪事を阻害している原因がなくなる(悪事が可能な環境が整うなど)なら、悪事がおこなわれる可能性は十分あると考えられる。
*1 G・E・M・アンスコム「現代道徳哲学」『現代倫理学基本論文集Ⅲ』164頁。
加えて人は通常必然的なことは繰り返されるが、偶然的なことは繰り返されないと予想する。そのため実際にいつ結果に反映されるのかはわからないとしても、以前に有害な結果を引き起こしたことのある悪意志が認められれば、その悪意志が矯正されたことを示唆するような特別な事情が認められない限り、またなにかしらの有害な結果を引き起こすのではないかと警戒する。そのため誰かが悪意志をもっていることがわかっているなら、具体的な行動に移していないからという理由によっては、問題がないとは考えられない。
したがって人が他者の道徳性について考えるときに気にしているのは、たんなる結果ではなく、その人の意志のあり方だと考えることには、十分な理由がある。悪意志はいまだ悪事の原因となっていない(なんらかの結果につながっていない)としても、悪事の原因となる可能性があるというだけで、社会にとって都合の悪い原因可能性として忌避される。
にもかかわらず日常で道徳にかかわる議論がなされる際には、悪意志が具体的な原因として発動した結果ばかりが注目されて、原因可能性としての意志の問題は軽視されることが多いように思われる。このあたりに注意を向けようとする人がいても、そういう人はたいてい、理性的だと自負する人からは、感情的で非理性的な意見として扱われるのが落ちだ。
もし「理性的な」議論で意志(というよりも本人の資質)が問題とされることがあったとしても、おそらくは本人の意志のあり方が推測されて論じられるよりも、悪い結果を引き起こしたから悪い資質をもっているに違いないと、結果からさかのぼる形で意志の善し悪しが判断されることになる(この方法ではアンスコムがいうような、善い行為が悪い帰結をもたらしたというような状況は議論できないのだが)。これはなぜだろうか。
議論するときにはやはり、なるべく説得力のあることを言いたい。そうなると本当に悪事が繰り返されるかが不透明な「意志のあり方」を根拠にすると、確実性が乏しくなり、導かれる結論に説得力がなくなるように感じるのかもしれない。意志は目に見えないものであるために、客観性に欠けると思われるのだろう。
だが悪意志に限らずリスクとは、社会に埋め込まれた地雷のようなものだ。確実に踏むとは限らないからといって、地雷原をそのまま放置していても問題ないということにはならない。悪意志のことを考慮せずに、実際の被害や近いうちにほぼ確実に起こるだろう事象だけで善悪判断するのは、まだ地雷が埋まっているにもかかわらず、実際に負傷した人の数だけを見て被害の全容が確定されたと考え、まだ踏まれていない地雷のことは不問にするようなものだろう。そこではこれから生じるかもしれない、将来の被害がまったく無視されている。まだ踏まれていない地雷を撤去してはじめて、善がなされた、つまり社会の安全性が高まったと主張することが許されるのではないだろうか。
たしかに悪意志の影響は決して確実なものではなく、可能性にとどまるものかもしれない。しかし是正されるまでは存在し続けるため、連続した時間の中で、5分後にも、1ヶ月後にも、1年後にも10年後でもその可能性を発生させ続ける。このことは世界に、未来のわれわれに延々と不利益を与え続けることを意味している。
道徳で重要なのはこの世界で実現された結果ではなく、人の意志であることは間違いない。結果はその場限りだし、すでに起きたことは取り返しがきかない。
それに対して人の意志がどうあるかは、長い未来時間にかかわってきて、今のうちに矯正できればまだどうにかなる。実際の影響の度合いは、結果をどうにかしようとするよりも、意志をどうにかしようとした方がずっと大きくなる。
もちろんこれは、具体的な行為として現れる前に、悪意志をもっていそうな人を見つけて罰を与えるべきだといっているわけではない。悪意志の有無は他者の目からは確認できないため、悪意志のない人を誤って罰してしまう可能性がある。ここでいいたいのは、どのような結果を生じさせたかでその人を評価するのではなく、どのような意志からその行為や結果が生まれたかで評価するべきだということだ。
こうしたことは悪意志だけではなく、人の善意志にも同じことがいえる。道徳的な価値とはまさしく、人の意志にこそ宿るものだからだ。トロッコ問題で善意よりも悪意を重視したからといって、なにも善意志の価値が低いというわけではない。
ここでいう善意志とは、善いことをしようとする意志のみならず、悪いことをしない意志も含んでいる(要は、悪意志でないこと)。さらに意志は間接的な意図も含んだ概念なので、善意志には悪い結果を生じさせそうな原因可能性を、放置しないということも含む。
前述したようにジョシュア・グリーンは、人びとは歩道橋パターンにおける反功利主義的動機をうまく説明できないことが多いとしていた。しかし以上のような考え方なら、人びとの情動的反応にも合理的な説明を与えられる。
合理的に考えるなら歩道橋パターンでも助かる人数が多くなるような判断をするべきだと単純に考える人たちに足りていないのは、つねにわれわれの眼前に広がっているが、どこまで広がっているのかまではわからない、不確実な未来への考慮だ。われわれはそのような不確実な未来に、蓋然性(確率)という武器をもって立ち向かっている。悪意志はそうした蓋然性に影響を与えるものとして、われわれの日常的な判断においても考慮に入れなければならない。




