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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第六章 意志と結果を意味づける
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意図と意志の区別、二重結果の誤謬

(意図と意志の区別)

 意図と意志は、区別する必要がある。

 意図は手段選択にかかわり、なにかしらの結果を生じさせることを目的に行為が為された際に、その結果がさらなる目的の手段として望まれたものなら、その結果を意図していた、またはその行為は意図的だったといわれる。

 主観的目的だけは例外として、なんらかの結果として実現されるようなものではなく、なんらかの手段になる性質のものではないが、それでも目的として目指されていたなら意図されていたといっていいだろう。ここで手段として望まれていたことを要素としているのは、その行為や結果の論理必然性を強調したいからだ。

 誰かのリスクを減らすことをなんらかの目的のための手段として望むときには善意があるといい、反対に誰かのリスクを増やすことをなんらかの目的のための手段として望むときは悪意があるという。悪意の場合目的達成のためには必ず他者に害を与えることが必要となるため、ほかの偶然的な要素によって被害を避けられる可能性が少なく、被害の蓋然性が高い。対象者が被害を避けようとすることを容認せず、害を与えるまで狙い続ける可能性があるからだ。


 それに対し意志とは、意図に加えて、それ自体は手段として望んだわけではないが、結果として生じるだろうとたんに予測されただけの帰結を含む経路全体(客観的目的も含めた経路全体)を指す。

 間違った意志である悪意志は、悪意のある意志はもちろんのこと、悪意はなくとも、他者に害を与える可能性を認識しながら、誤った行為をあえて強行した場合の意志も含む。この場合は被害は必ずしも必須ではないため、他者が被害を避けようとする行動を容認する分、悪意と比べれば結果はいくぶん偶然的といえるだろう。当人にとって悪い結果が起こらずに済むのなら、それに越したことはないのだ。

 しかしそれでも被害がありうるのがわかっていて行為したのであれば、結局はその意志が結果に(因果的)必然性を付与することになり、間違った意志による行為には違いない。こうした悪意志のもち主は、たとえいまだに間違った行為をしていなかったとしても、それもたんなる偶然でしかないため、放置していると社会的なリスクになりうる。


 ベンサムは意図を、直接的な意図と間接的な意図に分類した。

 前者は「そのような結果が生み出されるという見通しが、その人にその行為をすることを決断させた原因の連鎖のうちの一つとして含まれている場合」で、後者は「行為が遂行されれば、そのような結果が生まれることが想定されていても、その発生の見通しが、すでに述べた原因の連鎖のうちに含まれていない場合」と説明される(*1)。ここで「間接的に」と訳されている語はobliquelyで、「遠回しに」という意味もある英単語だ。なので巡りめぐってそのような結果が生じているだけだと、解釈することもできるだろう。

 この用語法との関係でいうなら、たんに「意図」というときは直接的な意図のみを指し、「意志」という言葉で直接的な意図と間接的な意図を<合わせたもの>を指すと思ってもらいたい。


*1 ベンサム『道徳および立法の諸原理序説(上)』(中山訳)200頁(第八章六項)。



(二重結果の誤謬)

 すでに述べたようにトロッコ問題の初出論文にて、フィリッパ・フットは二重結果論について考察している。この理論ではポイントを切り替えても、待避線にいる作業員がひかれるという結果を意図した行為ではないため、免責されることになる。

 この論文を読んで気づいたことなのだが、二重結果論のような考え方がなぜ生まれるのか、その理由はそれぞれ異なる観点での行為の分類が混同されがちなところにあるように思われる。つまり直接的な意図と間接的な意図、完全義務と不完全義務、消極的義務と積極的義務(他者への不干渉と慈善行為)、おこなうことと起こるのを容認すること、そして責任の所在に影響する区別としての必然的結果と偶然的結果の区別(本稿第九章参照)が、すべて二重結果論に含まれているのだと誤解されることによって、意図していないことには責任が生じないとする誤解が生まれる。

 このうちフットの論文に登場するのは直接的な意図と間接的な意図、消極的義務と積極的義務、おこなうことと起こるのを容認することの区別だけだが、消極的義務と積極的義務の区別が完全義務と不完全義務の区別に由来するのは、前章の考察からあきらかだろう。実際に彼女は慈善行為を積極的義務に含めているのだが、カントの不完全義務の例にも慈善行為が使われていて、積極的義務と不完全義務には混同されうるような関係があることがわかる。

 おこなうことと起こるのを容認することに関しては、直接的な意図と間接的な意図の区別にほぼ重なると考えてよさそうだ(厳密にいえば間接的な意図による結果は起こるのを容認された結果だが、逆は必ずしも真ではない。行為する前からそうなっていたものを、そのままにしておくという場合もあるからだ。ただここでの考察にはさほど関係しないので、この違いはあまり気にしなくていい)。


 二重の結果の定義にかかわるのは、これらの区別のうち最初のもの、つまり直接的な意図と間接的な意図の区別だけだ。しかしこの区別自体は、責任の有無には一切かかわらない。責任にかかわらない二重の結果の区別が、責任にかかわると考えられるほかの区別に思考の途中ですり替えられることによって、二重結果論のような考え方が生まれるのだろう。たとえば完全義務と不完全義務の区別も責任の有無にはかかわらないのだが、非難されるか否かということから、責任の有無にかかわると誤解されがちなのは前章で説明した。

 これらの区別の中で本当に責任の有無に影響するのは最後の区別、つまり必然的結果と偶然的結果の区別だけだ。詳しくは第九章で説明するが、他者の意志が介在することで生じる偶然性によって結果の予測が困難になったか、その他者が責任を負えばその悪い結果を回避できるような場合に限って免責の理由になる。反対にいえば他者の意志が介在せず、結果の予測がはっきりおこなえるなら、それ自体を意図していなかったとしても責任を負わなければならない。

 間接的な意図による結果が、責任を減免する偶然的な結果にすり替えられるまでの思考ルートは、たとえば次のようなものかもしれない。間接的な意図による結果は、目的達成との関係でいえば、生じる必然性がない。つまり目的達成のためには、必ず生じなければならないというものではない。ここで否定された必然性はあくまで論理的な必然性なのだが、これが因果的必然性にすり替えられたとしよう。すると間接的な意図による結果は、因果的に偶然的なものとなる。因果的に偶然的な結果は当人がコントロールできるたぐいのものではないから、間接的な意図による結果には責任は負わなくてもいい。

 もちろん二重結果による免責判断がなされる際にその都度、こうした思考が意識的におこなわれているといいたいわけではない。概念のすり替えが頻繁に生じる理由の一つとして、思考のショートカットがある。なんらかの概念をそれと類似した概念やより一般化された類概念と同一視することで、思考リソースを節約できる場合は多い。そのためわれわれはしばしば、これまでの経験のどこかで、一度でもなんらかの概念を混同してしまったなら、その次からはなんの疑問ももつことなく、そうやってすり替えられた概念を前提とした思考をおこなう。


 ここまでは二重結果論自体に内在する誤りについてだったが、人びとが実際に二重結果論にもとづいて行為の善し悪しを判断しているという考え方についてはどうだろうか。 

 たしかにトロッコ問題の二つのパターンに対するジョシュア・グリーンの実験結果は、直接的な意図と間接的な意図の違いでうまく説明できるように思える。だがその二つのパターンに対する人びとの反応の違いは、間接的な意図が免責されることを理由としたものではない。あくまで将来のリスクとして間接的な悪意よりも直接的な悪意の方が、悪い結果を再生産する確率が高いからでしかなく、だからこそそのような反応をするようにわれわれは進化してきたのだろう。

 その意味ではたしかに、他者に危害を加えることを手段として望むような直接的な悪意よりは、他者のリスクを減らすようなことを容易におこなえるのにそうしようとしない間接的な悪意の方が、幾分かはましといえるかもしれない。しかしたとえ比較することでまだましだったとしても、そのことをまだましな行為の免責事由にはできない。間接的な悪意だったとしてもあきらかに、あるよりはないほうがいいのだから。

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