歩道橋パターンの解決 ~悪意の存在とネガティビティ・バイアス~
続けて、太った人を歩道橋から突き落とすことを考えてみよう。
もし突き落とすなら、太った人を道徳範囲から外す代わりに作業員たちを含めることになり、突き落とさないなら、作業員たちを道徳範囲から外して太った人を含めることになる。道徳範囲を最大まで拡大してリスクの数の増減に注目してみると、作業員たちが命を落とすか、太った人が命を落とすかで、どちらにしてもリスクは一つとなる。
ここまではポイント切り替えと、なにも変わらない。やはりこちらも道徳的に中立だといってよさそうだ。にもかかわらず多くの人が、たとえトロッコを止めるためだったとしても、人の命をたんなる手段として用いるべきではないと考える。なぜか。
もう少し別の観点から見てみよう。目的と手段の関係について、もう一度原点に戻って考えてみる。
最終目的である生命維持以外の目的はすべて、別の目的の手段になりうる。同様に行動の原因である意志以外のあらゆる手段はまた、なにかしらの目的でもある。
つまり太った人を電車にぶつけるという行為自体が、手段であるとともに目的でもあるわけだ。ここからわかるのは、トロッコを止めて作業員を助けるまでの手段―目的の連鎖(経路)の中には、太った人への加害の意図が含まれているということだ。
突き落とされる人をAとすると、図6のように表現できる。
他者への危害を目的とした行為を意志することは、れっきとした悪意(悪意志)だ。そしてこの悪意は、社会上のリスクになる。なぜなら一度悪をおこなった意志のもち主は、その意志のあり方が矯正されないかぎり、別のときにまた悪を繰り返す確率が高いとみなされるからだ。
そのため太った人を突き落とす行為のあとには、悪意をもちうる人というリスクが残る。したがって人を突き落とすとリスクが増加するので、突き落とすべきではないと結論できる。
これにより、目的のためなら手段を選ばないというやり方は否定される。いくら志向している目的(作業員を助ける)が正しいものだったとしても、そのための手段に悪(他者危害)が含まれている限り、その行為を正当化することはできない。ただしその手段を選ばなければ自身の主観的目的に反するという場合には、一般的に悪とされる行為が免責される余地はあるかもしれない(免責事由に関して詳しくは、第九章で扱う)。
もしかすると作業員たちを助けようとする善意を無視していることに、不満を抱く人がいるかもしれない。悪意があったとしても、善意があれば打ち消されて(リスクがマイナスされて)、結局プラマイゼロになるのではないか。あるいは、作業員たちを見殺しにすることだって悪意じゃないか、と主張する人もいるだろう。
ここでもやはり、理念との矛盾で考えてみよう。たしかに他者を助けようとする善意ある人がいないよりは、いる方が好ましいのは間違いない。しかしそうした善意ある人が欠如していること自体は、リスクのない社会とは矛盾しない(両立しうる)。誰も誰かを助けようとはしないけれど、それでもみんなリスクなく幸福に生きている社会は、十分想像できる。
リスクに見舞われている人を見殺しにすることも、そもそも最初からリスクのない社会であれば、問題にはならない。もちろんリスクを減らせるにもかかわらずリスクに見舞われている人を見殺しにするのは、リスクを減らすという目的を目指す完全義務に違反する。だがこの突き落としパターンでは、リスクを減らせない。あくまで道徳によって本当に考えるべきは、突き落とすか突き落とさないかの選択でリスクをどうにかしようとすることではなく、トロッコの暴走によってリスクに見舞われる人を減らすには、どうすればいいのかということだ。
それに対して人の命を奪う悪意の場合には、話が変わってくる。悪意ある行為がありうる時点で、リスクのない社会とは矛盾する。ミルが指摘するように「人は他者から恩恵を受けることは必ずしも必要としないかもしれないが、他者が自分に危害を及ぼさないことをつねに必要としている」(*1)
よって避けなければならないのは善意の欠如ではなく、大義名分があるからといって他者を害することを正当化しようとする悪意の方だといえる。こちらはむしろ悪意の自覚がない分、単純に他者への危害を望むような悪意よりも、余計にやっかいかもしれない。単純な悪意ならそれに対する具体的な対処の理由は明白だが、自覚のない悪意に対処しようとすると、その対処理由を説明して当人に納得させるのは、現実的には骨の折れる作業になるだろう。
*1 ミル「功利主義」『功利主義論集』339頁。
実際は、ここまで細かく考える必要はないかもしれない。そもそもどちらを選択しても、行為者の意志以外の部分ではリスクの増減が起こらない。その状態で突き落とす行為を情動的に思いとどまらせるような仕組みが人間に備わっているのだから、わざわざその反応を無視して加害行為を強行する理由など、どこにもないはずだ。
通常人間は善意よりも悪意に強く反応するようにできていて、そうした傾向はネガティビティ・バイアスと呼ばれる。
カイリー・ハムリン、カレン・ウィン、そしてブルームは、生まれて間もない赤ちゃんに、丸や三角といった図形を人形のように操作する劇を見せる心理学実験をおこなった。この実験によって、親切さを好む反応よりも意地悪さを好まない反応の方が、発達の早い段階で現れることがあきらかにされた。つまり悪に対する感度は、善に対する感度より強力で、より早く芽生える(*2)。
*2 ブルーム『ジャスト・ベイビー』30~32頁。
このような仕組みが人間に備わっているのは、なぜだろうか。考えられるのは、善意と悪意では、なにかしらの対応が要求されるか否かという点に、違いがあるということだ。
善意をもつ人は、わざわざこちらから働きかけなくとも、向こうから近寄ってきて親切を施してくれる可能性がある。つまりこちらがなにもしなくとも、こちらのリスクを減らす行為をしてくれるだろう。それにもし善意のある人が身の回りにまったくいなかったとしても、そのことが即座に自分の不幸を確定させるわけではない。なにかしらの問題が発生したとしても、もし自力で解決できるなら、誰かの善意がなくともなんとかなる。
だが悪意は違う。悪意をもつ人は、こちらがなにもしなくとも勝手に離れていってくれはしない。さらには自力で問題を解決しようにも、悪意ある人が次々と新たな問題をつくり出して、邪魔をしてくるかもしれない。こうした悪意による被害を避けるには、自分で悪意ある人から離れるなど、なんらかの自発的な行動をとる必要がある。
したがって善意ある人は見逃してもあまり大きな問題にはならないが、悪意ある人を見落とすと決して無視することのできない、大きな不利益を被る蓋然性が高い。バイアス(偏り)とはいっても、そのような仕組みが人間に備わっているのには、それなりの理由がある。より敏感に気にしなければいけないのは間違いなく、善意ではなく悪意の方だ。




