トロッコ問題
あなたの目の前にある線路上を、一台のトロッコ(路面電車)が走ってくる。その進行方向にふと目を向けると、5人の作業員がいるのが見えた。どうも彼らは、トロッコが走ってきているのに気がついていないらしい。
すぐにでもブレーキをかけないと、トロッコは彼らをはねてしまうだろう。だがトロッコには、一向に速度を落とそうとする気配がない。どうやらブレーキが壊れて、効かなくなっているようだ。
あなたの手の届く位置には、ポイント(分岐)を切り替えるスイッチがある。それを使ってトロッコの進路を、途中にある待避線に切り替えれば、5人の作業員を助けることができる。だが困ったことに、その待避線の先にも、別の作業員が1人いる。
つまりポイントを切り替えなければ5人の作業員がひき殺され、切り替えると1人の作業員がひき殺される。この場合あなたは、ポイントを切り替えるべきだろうか、それとも切り替えるべきではないのだろうか。
以上が「トロッコ問題」と呼ばれる、有名な道徳的ジレンマになる。初出は哲学者のフィリッパ・フットによる、1967年の論文とされる(*1)。この論文では第四章でも触れた二重結果論を考察する過程で、ほかのさまざまな事例と並んでこの暴走列車の例がもち出される。
*1 Philippa Foot, "The Problem of Abortion and the Doctrine of the Double Effect", Oxford Review, No.5., 1967. 以下で無償公開されている。https://philpapers.org/archive/FOOTPO-2.pdf(2023年7月21日閲覧)。
このトロッコ・ジレンマについて、ジョシュア・グリーンによる調査では、87パーセントの人がポイントを切り替えるべきだと答えたという(*2)。多くの人が、5人もの人が死ぬよりは、1人だけ死ぬ方がましだと考えるようだ。
*2 ジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ』291頁。
トロッコ問題は哲学者のジュディス・ジャーヴィス・トムソンなど、ほかの学者たちによってさまざまに拡張されてきた。たとえば先のオリジナルのパターンには、しばしば次のような亜種がセットで提示される。
先の例と同じようにトロッコが線路上を暴走しており、その進行方向に5人の作業員がいる。
しかし今度は、待避線はない。その代わり線路をまたぐようにして架かっている歩道橋の上にはあなたと、太った男の人がいる。
もしあなたがその太った人を線路の上に突き落としてトロッコにぶつければ、トロッコを止めて5人の作業員を助けることができる。もちろん突き落とされた男の人は、トロッコにぶつかった衝撃で、命を落とすことになるだろう。
この場合あなたは、彼を突き落とすべきか否か。あなた自身がみずから飛び降りてトロッコを止めるのは、体重が軽すぎるために不可能だとする。
こちらのパターンでは、突き落とす選択を支持する人は31パーセントだった(*3)。ほかの人たちを救うためとはいえ、事実上の殺人行為をおこなうことには、否定的な人の方が多いようだ。
*3 グリーン『モラル・トライブズ』285頁。
ポイント切り替えの場合、大半の人は助かる人数が多くなるような選択をしている。これは最大多数の最大幸福を目指そうとする、功利主義に適合的な考え方だといえる。それに対して突き落としパターンでは、助かる人の数が多くなるような選択をすることに、多くの人が躊躇している。こちらは太った人を多数の人を助けるためのたんなる手段にしていることが、躊躇の原因になっているのかもしれない。だとするなら、前述したカントの定言命法・目的の方式に適合する考え方といえるだろう。
こうした理由からこの二つのパターンへの人びとの反応の違いは、功利主義とカント主義(義務論)の違いとして語られることが多い。もちろん太った人への加害行為に躊躇していると考えるなら、ミルの他者危害の原理に適合的な判断をしているとも考えられるだろう。
人びとが二重結果論(第四章参照)に沿った考え方をしていることの、根拠とされることもある。というのも歩道橋パターンでは太った男の人を突き落とす行為を直接的に意図しているが、ポイントの切り替えでは一人の作業員がひき殺されるのはたんに予見しているにすぎず、そのことを直接的に意図している(そのことを望んでおこなった)わけではないと解釈することもできるからだ。
どのみち問題によって異なる考え方を採用していることが、人間の道徳判断の一貫性のなさ、不合理な思考をあらわしているとされる。
グリーンはこうした事象について人が判断するときの脳の活動を調べるため、機能的磁気共鳴イメージング(fMRI)を使って脳をスキャンした。
すると突き落としパターンは前頭前野腹内側部(VMPFC)の一部を含む前頭前野内側部の活動を増加させ、ポイント切り替えパターンは前頭前野背外側部(DLPFC)の活動増加を引き起こすことがわかった。
VMPFCは情動反応にかかわる部位で、DLPFCはそうした情動を抑制するなどの認知制御をおこない、推論や判断、意志決定などにかかわる。このことからグリーンは、DLPFCは明示的な意志決定ルールを使って功利主義的な判断をし、VMPFCは情動反応を引き起こして義務論的に判断するのだと考えた。
彼はトロッコ問題のさまざまな亜種のパターンを用いて、トロッコを止めるために利用する人(突き落としパターンにおける太った人)に人身的な力を加える場合(自分の手を使って突き落としたり、棒で押したり)は拒否反応を示す人が多いが、ボタンを押すと開く落とし穴からその人を落とすことでトロッコにぶつけるような場合には、拒否反応を示す人が少なくなることもあきらかにしている(*4)。
*4 グリーン『モラル・トライブズ』285、287頁。
功利主義者でもあるグリーンは、こうした実験結果をもっぱら功利主義を擁護するために用いている。では本稿でここまで説明してきた理論だと、どう考えることができるだろうか。使える道具立ては、道徳範囲と、リスクの増減という二つの基準だ。ポイント切り替えパターンと突き落としパターンについて、順番に考察していくことにしよう。




