不完全義務の価値と相対主義(2)
図5をもう一度確認しよう。
不完全義務の先には、完全義務がある。間違った表示の商品をそのまま黙って購入した際に非難されるのは、それが特定の行為(不完全義務)をしなかったからではなく、リスクを減らすためにするべきことを<なにもしなかった>からだ。
このことを踏まえると、道徳的義務に対しての「~しない自由」とは、正確には「~とは別の手段を選択する自由」だといっていい。
客観的目的に不可欠な目的自体は完全義務として目指さなくてはならないのだから、そのための手段をなににするかは各人の自由だとしても、必要な目的を目指さないという選択だけは否定しなくてはならない。先にも述べたが、コロナ禍の航空機内でたんにマスクをせずにいたら非難されるにせよ、もしそれ以外の方法でなるべくリスクをつくらないように行動していたとしたら、おそらく社会から非難されることは避けられたに違いない。
不完全義務の価値を低く捉える人たちをいかに批判するかは、一部の哲学者の重大な関心事だった。
ジョン・ロールズの『正義論』は不完全義務である社会福祉を完全義務に切り替えるための理論だった(*1)し、シューメーカーは一度はスコットランド学派の哲学者ドゥーガルド・スチュワートによって否定され、カントやミルも採用していない不完全権利という概念を復活させることで(つまり不完全義務の履行を正当に要求できるような権利の存在を想定することで)、不完全義務の不履行が罪となるようにしようとした(*2)。
ただシューメーカーの考え方を採用すると、ちょっとした困難が生じる。そもそも彼がなぜ不完全義務を守らせるために不完全権利が必要だと思ったのかを考えてみると、権利を守らせるために(他者の)義務がある(権利がなければ義務がない)という考え方がその前提になっていることがわかる。だから不完全義務違反を罪にする(義務の履行を強制する)には対応する権利が必要で、不完全権利の存在が想定されたのだと考えられる。
それに対して本稿のように、義務を守らせるために(他者の)権利があると考えるなら、権利に必要なのは義務を守らせる強制力だけなので、外的強制が許される完全義務にだけ、対応する権利があればよいということになる。不完全義務の履行は自己強制によってのみ達成されるものなので、社会(他者)を前提する権利の存在は考えなくてもいい(ミルによる権利の定義を思いだそう)。
シューメーカーのように権利を先において(義務の根拠に権利があるとして)義務を論じようとすると、なぜ権利の存在が認められるのかという問いに、結局は義務があるからとしか答えられず(利益への欲求が誰にでもあるということでは、他者を説得する術にはならない)、循環論法に陥ってしまう。だが反対に義務を先におくならば(権利の根拠に義務がある)、その根拠に生物としての目的をもち出すことができるので、論点先取を避けることができる。
ただしシューメーカーが不完全権利をもち出すことで意図していたのは、直接自身に利益があるわけではない利他行為――「見返りを顧慮しない分かち合い」の価値を高めようとすることだった。それなら不完全権利などなくても、不完全義務(手段)の<目的>を完全義務化することによって、彼の果たしたかった意図も問題なく達成できるに違いない。
*1 シューメーカー『愛と正義の構造』189頁。邦訳者の加藤による解説から。
*2 同、158頁。
結局サイコロの出目の申告にせよ雑貨店の場合にせよ、コントロール条件の人たちがもつ道徳範囲の広さが変化するわけではなかった。
どちらのパターンでも道徳範囲は狭く、客観的目的との関係とは別の仕方で正当性の判断をしていたにすぎない。ここでの判断材料は普遍的な善悪そのものではなく、あくまで自分に有利な善悪を主張できるか、つまり正当性を主張できるかという保身でしかない。正しく行動しようとして正しく行動した絶対主義条件のグループとは、たとえサイコロの出目に関する行動は結果的に同じだったとしても、その行動理由はまったく異なるものだったのだ。
本当は道徳範囲外の人にありうるリスクは自分にだってありうるのだが、道徳範囲の外にいる人たちのことを理性と想像力を使って意識しないかぎりは、そもそも共感が働いていないため、なかなかそのことに気づけない。
他人がミスによって損失を被るのを防がないということは、自分がミスをして損失を被る可能性がある状況にあっても、誰も教えてくれないし、助けてもらえない可能性がそれだけあるということだ。そのことに自然に気づくのは、意外と難しい。共感が届いていない人たちに共感するというのは、矛盾しているからだ。
だから共感の範囲を拡げるためには、その人の意識外から影響を与えてくるなにかが必要となる。おそらく多くの場合では共感感情が、そのように人の意志に働きかけて共感を促すものとして機能している。もし共感感情が働かないのなら、他者からの働きかけ(説得など)が代替手段となりうるだろう。
被験者が相対主義的な文章を読ませられたことで道徳性が下がったように見えたのは、道徳範囲がそれによって狭まったからではなく、その狭い道徳範囲にお墨付きを与えられた(正当化された)ためだった。
多くの人は通常狭い道徳範囲を志向しているものの、つねにそのことに正当性があるとまでは思っていない。その状態から相対主義が正しいと人から言われれば、もし非難されるようなことがあってもそのことをもって反論できると考えることが可能となる。
言ってしまえば、たがいに道徳範囲から外しあうことで、互いに相手を責められないと考えるのが相対主義だ。相手も自分を範囲外にしていることを前提にして、公平性の論理で正当性を主張する。あなたもわたしのことを道徳範囲から外してもいいのだから、わたしがあなたのことを道徳範囲から外していたからといって、非難されるいわれはないという理屈だ。
だが相手が自分を道徳範囲外にすることを認めるということは、自分の目的を相手が尊重する理由がないと認めることでもある。
そのような相手にいくら自身の行為の正当性を主張したところで、聞く耳をもってはもらえないし、相手が自身を害する行為をしてきたとしても、そのことに文句を言うこともできなくなる。実際はまともに正当性を主張できないのに、公平性の論理を形式的に使ってしまったがために、正当性を主張できると勘違いしているにすぎないのだ。
さて次章では、これまで説明してきたことを使って、倫理学や道徳心理学においてよく用いられる、ある道徳ジレンマの問題を解いていくことにしよう。そうすることで道徳判断の仕方について、より具体的なイメージをもてるようになるはずだ。




