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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第五章 道徳的義務を意味づける
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不完全義務の価値と相対主義(1)

 完全義務と不完全義務の区分そのものには、どちらの方がより重要だとか、完全義務だけ守っていれば不完全義務は無視してもいいというような意味は含まれていない。

 だが目的に対して複数ありうる手段の価値がどうしても見劣りしてしまうというのも事実で、シューメーカーのリストにある「重要な/些末な」「第一義的/第二義的」「厳重な/さして厳重でない」といった形容詞のペアたちからも、不完全義務の価値を軽んじるような論者は、歴史的にも少なくなかったことがうかがえる。

 加えてリスクを増やす行為が完全義務違反として責められ、違反しても責められない不完全義務はすべてリスクを減らす積極的行為であることから、こうした義務違反区分はしばしば作為不作為の違いと混同され、作為は責められるが、不作為は責められないというように誤解されていることも多い。この責められるか責められないかという違いもまた、完全義務と不完全義務に重要性(価値)の違いがあるかのような見かけを生じさせる。


 次のような実験がある(*1)。人の道徳判断における相対主義(人によって正しいことは違うという考え方)と、絶対主義(すべての人に共通する、普遍的な正しさというものがあるという考え方)について調査したものだ。

 この実験では被験者を、女性器切除の風習について①相対主義的な観点から支持する文章を読ませられたグループ②絶対主義的観点から否定する文章を読ませられたグループ③コントロール条件として料理に関するシェフの意見を読ませられたグループ―の三つに分ける。

 まずはすべての被験者にサイコロを振らせ、出た目が大きいほどより多くの現金がもらえるという機会を与えた。被験者たちは、その目をごまかして申告することができるようになっている。

 すると被験者が申告した数は、「コントロール条件と絶対主義的文章を読ませられたグループの間では変わらなかった」ものの、相対主義的文章のグループでは有意に高かった。つまり道徳性に影響を与えられるような文章を読んでいない通常状態(コントロール条件)の人は、絶対主義的な考え方をしている人と同じように行動した。

 次に同様の分け方をした被験者に対して、雑貨店であきらかに誤って安い値段を表示してある商品を見つけた場合、そのまま購入するかどうかをたずねた。

 すると被験者がそれに肯定的に答えた傾向は、「コントロール条件と相対主義的文章のグループの間では変わらなかった」ものの、絶対主義的文章のグループでは有意に低かった。こちらのケースでは通常状態の人は、相対主義的な人と同じように行動する。


*1 ここでの実験についての説明は、以下を参考にした。太田絋史「我々は客観主義者なのか?――メタ倫理学への実験哲学的アプローチ」蝶名林亮編著『メタ倫理学の最前線』勁草書房、2019年、337頁。

 太田によると、以下から。Rai, T.S., & Holyoak, K. J.(2013). "Exposure to moral relativism compromises moral behavior". Journal of Experimental Social Psychology, 49(6), 995-1001.(筆者は未読)


 以上の実験結果から気になる点は、主に二つある。

 一つはこの結果を見る限り、絶対主義的文章を読ませられたグループでは道徳性が高まり、相対主義的文章を読ませられたグループでは逆に、道徳性が下がっているように見えることだ。これは絶対主義を意識することで道徳範囲が拡大し、相対主義を意識すると道徳範囲が狭まるためだと考えられる。なぜこのような現象が起きるかというと、そもそも相対主義的な考え方というものが、人びとを道徳範囲の内にいる人と外にいる人に区別することで生じるからだと思われる。

 たとえばわたしが、相対主義的な考え方が正しいと考えているとしよう。これはわたしとあなたが異なるものを正しいと考えているということを意味し、言い換えればわたしとあなたが異なる目的を志向しているということでもある。これはわたしがあなたと客観的目的を共有できていないと判断するということだから、あなたのことを自分の道徳範囲から外すことになるだろう(あなたにまで道徳範囲を拡げる意味がないからだ)。

 そのようにして道徳範囲を狭めた被験者は、サイコロの出目をごまかしたことによって本来は払わなくてもよかった支払いをせざるをえなくなる人、本来得られたはずの利益より少ない利益しか得られなくなった雑貨店の店主や、あとで表示を間違ったことに気がついた店主に叱られるアルバイト店員などのリスクには、一切共感しなくなる。

 その結果として、サイコロの目をごまかすことや、安い表示のまま商品を購入するといった行為を、罪悪感なくおこなえるようになる。


 二つ目は、コントロール条件を割り当てられたグループに関するものだ(出典ではこちらが問題とされていた)。

 このグループの被験者の反応は、なにも実験者の恣意的な影響を受けていない、通常状態の人間の反応と考えていいだろう。その通常状態の人間が、サイコロの出目に関しては絶対主義的文章のグループと同様に道徳性の高い反応を示し、雑貨店では相対主義的文章のグループと同様に道徳性の低い反応を示している。

 つまりあるときは絶対主義的な考え方をして、別のあるときには相対主義的な考え方をしているように見える。人間は道徳範囲を、この二つの状況で使い分けているということだろうか。それならこの違いは、いったいどこから来るのか。

 道徳範囲が変化しているように思えるのは、コントロール条件のグループの選択が、絶対主義的文章や相対主義的文章を読ませられたグループと、同じ理由でおこなわれていると考えているためだ。


 被験者の立場になって考えてみよう。

 義務の区別と作為不作為を混同すると、次のような思考になる。サイコロの目のごまかしは、リスクを増やす行為なので作為となり責められるが、安い表示のまま商品を購入する行為は、店員に知らせるなどリスクを減らす行為をしなかったという不作為なのだから、非難されるいわれはない。

 この違いはその原因をつくったのが誰かによって、責任の所在を判断しているためと思われる。リスクを実際につくり出す(つくり出した)のは、前者ではサイコロの目をごまかした自分だが、後者では間違った表示をした店側だ。責められるべきはあくまで、リスクの原因をつくり出した者だろう。

 この理屈から、逆算して善悪を考える。サイコロの目をごまかすと責められる(責任がある)から、それは悪い行為だ。しかし間違った表示の商品をそのまま購入しても責められない(責任がない)から、これは悪い行為ではない(自分のせいじゃない)。

 よってサイコロの目をごまかしてはいけないが、間違った表示の商品をそのまま購入するのは問題ない(悪いのは、表示をミスした店員だ!)。


 だが実際は間違った表示の商品を購入することに対しても、非難する人が出てくる可能性は十分考えられる。他者のミスを利用し、他者に害を与えてでも不当な利益を得ようとする行為の存在は、リスクのない安全な社会という理念と矛盾し、完全義務に違反するからだ。つまりその行為は悪くないという考えには、根拠がない。

 不完全義務(というより作為義務)になら違反してもいい(不作為は悪くない)という誤解は、善悪の根拠を責められるかどうかだけで判断したことによって起こる。そのせいで不完全義務には、いかなる責任もないと思われがちだ。

 しかしすでに説明したように、不完全義務違反が責められないのは、決して作為義務への違反が悪くないからではなく、非難すると別の不都合が生じる可能性があるからにすぎない。

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