人権と社会的多様性
人権と社会的多様性の問題は、明確に区別しておく必要がある。
そもそも人権とはなにか。ミルは二種の義務の定義を、完全義務を「一人あるいは複数の人間がそれに対応する権利をもっているような義務」、不完全義務を「どのような権利も生み出さないような道徳的義務」とした(*1)。この区別の仕方は、シューメーカーのリストにおける「権利と関連する/権利と関連しない」という形容詞ペアにあたると考えていいだろう。
またミルは権利について、「私たちが何らかのものを人の権利と呼ぶとき、私たちが意味しているのは、人がその所有しているものを法律の力あるいは教育や世論の力によって保護してもらうことを社会に対して正当に請求できるということである」(*2)としている。
ここから完全義務違反を責めることは、それに対応する権利をもっている人(同じ社会に生きている人)が、社会(責める人から見ると他者である違反者)に義務の遵守を要求することと解釈できる。
*1 J・S・ミル著、川名雄一郎・山本圭一郎訳「功利主義」[1861、63、64、67、71年]『功利主義論集 近代社会思想コレクション05』京都大学出版会、2010年、323頁。
*2 同、329頁。
そうすると人権、すなわち人が人であるだけで当然にもっている権利とは、人が生命保全活動をしていく上で必要ななにかしらについて、その保障を他者に要求するものだといえる。言い換えればわたしを害するな、わたしの自由を侵害するなと、他者に完全義務の遵守を要求することを正当化するものだ。
反対に不完全義務の場合は、他者に強要するとその人に不利益を与えることになるため、そのような行為を社会(他者)に要求する権利は、誰にも認められない。
したがって人権に関しては、次のように言える。
他者の主観的目的に矛盾する行為など、<他人に対する完全義務>(*3)に違反する行為ならば、違反行為をする者に対して、人権侵害を主張して有害行為の是正を要求できる。ちなみに客観的目的に矛盾する人権侵害行為は、その行為があること自体が社会上のリスクになるため、たとえ自分が直接の被害者ではなかったとしても、同じ社会に生きているというだけで誰もが、完全義務の遵守を加害者に要求する権利をもつ。
ただし被行為者が自分でリスクを除去する方が容易だったり、選択できる代替手段があるなどの理由で、その行為が誰かの主観的目的に矛盾、つまり経路を阻害するなどで生存に不都合を生じさせるとまではいえないような事柄ならば、人権侵害を主張することはできない。もしそのような状態で人権侵害を主張したとすると、過度な要求となり、むしろ相手の自由を侵害することにもなりかねないからだ。
*3 [2023/6/30に追加した注]ベンサムは次のように述べている。「法律がある当事者に権利を授けた場合には……他の何らかの当事者に義務あるいは責務を課したことになる。……他者にかかわる義務であれば、それに対応する権利というものが存在する。しかし自己にかかわる義務については、それに対応する権利というものは存在しない」。これに前述したミルによる義務の定義を合わせて、他人に対する完全義務にだけ権利が対応すると考えるのが、より厳密だろうと思われる。引用は以下から。ジェレミー・ベンサム著、中山元訳『道徳および立法の諸原理序説(下)』ちくま学芸文庫、2022年[1789年]、129~130頁[第16章原註]。
ここでの人権の説明は、個人や、特別な社会的役割が法的に与えられていないような民間団体、すなわち私人間の関係性を想定している。そのため国家機関等との関係には、直接適用できない。
国家機関等には国民の福祉を増進するという目的が社会から与えられているため、私人にとっては不完全義務だったとしても、国家の目的との関係では完全義務になるという場合もあるだろう。
対する多様性とは、なにが目的に役立つかは誰にもわからない(今考えられているものが、唯一最善の手段とは限らない)ため、なるべく多くの手段を確保しておいて、少しでも多くの可能性を残しておくことを意味する。
社会に価値をもたらす類の多様性は、かわいそうな人を救うためのものではない。マイノリティへの抑圧はそのため、あくまで人権問題として捉え、社会の多様性の問題とは切り離して考えるべきだ。多様な価値観を認めることによって無為に抑圧される人を減らそうとするのは、多様性の問題ではなく人権問題であり、寛容はこちらに属する。
反対に個性を大切にしていくことは、どのような個性が社会の発展に役立つかがわからない以上、社会的な多様性の問題に属する。つまり人権は直接に主観的目的を保護するために必要とされるが、多様性は客観的目的を効率よく促進するために求められる。
マイノリティの問題は多様性の問題ではないという言葉を、形式的に捉えないようにしてほしい。個々のマイノリティへの差別は人権問題だが、少数民族の文化振興などは、社会的な多様性の問題といえる。
その一方で手段の多様性、多様な価値観への寛容によって個々の目的が促進されやすくしようという自由の問題は、人権問題となる。これらの違いは、その目的が社会の可能性確保にあるのか(多様性)、主観的目的との矛盾を除去することにあるのか(人権問題)というところにある。
多様性を確保するという観点から個性を大切にし、それぞれの違いに寛容になることは、社会の発展のためにも非常に重要なことだ。
こうした問題についてミルは、もともと後進地域だったヨーロッパが先進地域だった中国を追い抜いたのは、中国では同一原理による国民統制が機構として完成したことにより、社会が画一的なものとなってしまったのに対して、ヨーロッパには多様性があったからだと主張する(*4)。
したがって個性を尊重することは本人のためだけではなく、社会のためでもあるという認識は、もっと広く共有されなければならない。東京一極集中(あるいは強力な中央集権主義)や排外主義のような問題は、社会を単調なものにして多くの可能性をつぶしてしまうという点で、長期的な観点で社会に不利益をもたらす危険性があるといえる。
*4 ミル『自由論』(斉藤訳)174~177頁[https://www.gutenberg.org/cache/epub/34901/pg34901-images.html, Pg 134-136, 2023年6月23日閲覧]。




