義務の分類(2) ~自己に対する義務と他人に対する義務、完全義務と不完全義務~
そこでわたしが最初に思いついたのは、リスクを増やす行為の禁止が完全義務で、リスクを減らす行為が不完全義務というものだった。
これであれば第三章であきらかにしたように、前者は即座に安全な社会という理念に矛盾するため非難されるのは納得だし、後者についてなら、どう行動するのが正しいのかについて確実な判断など誰にもできないのだから、誰かが特定の行為をしないからといって非難することは、誰にもできないはずだと考えられるからだ。
だがすぐに、この区別の仕方ではうまく説明できない事例があることに気がついた。孟子の例を借りれば「今、人乍ち孺子の将に井に入らんとするを見れば、皆怵惕惻隠の心あり」(「今かりに突然幼児が井戸に落ちようとするのを見れば、だれでもはっと驚き深く哀れむ心持ちが起こって助けようとする」)(*1)というものだ。
一応孟子の挙げたこの例そのものに関しては蜂谷邦夫が、中国の四川省で女子中学生が池か川に落ちた際に、それを見ていた人たちがその子を救おうとするのではなく、救ってやるからいくら出せるかと親と交渉したという出来事が反例となって、説得力がなくなるとしている(*2)。
だがここでの論点で重要なのは、孟子が主張するようにだれでも哀れみの心をもって困っている人を助けようとするということではなく、もしそのような状況で助けられるのに助けようとしない人がいれば、おそらくほかの人びとからは非難の対象になるだろうということだ。
井戸に落ちそうになっている子どもを助けるのは、リスクを減らす行為のはずだ。ならば不完全義務ということになるが(たしかに、助けたら称賛されそうだ)、もしその子どもを助けるそぶりをまったく見せずに無視して見殺しにした人がいれば、それを知った人からは非難されるだろう。これは定義に合わない。
*1 『孟子』102~103頁(公孫丑章句上)。
*2 蜂谷邦夫『中国思想とは何だろうか』河出書房新社、初版1996年/オンデマンド版2006年、89頁。
そこで次に考えたのは、不完全義務を負っている人すべてを合わせた全体に対して、完全義務が課せられるというものだった。
たとえば世界から貧困をなくすための慈善活動は、リスクを減らす行為なので、不完全義務と考えられる。しかしその不完全義務を人類一人ひとりが負っているため、人類全体には貧困撲滅が完全義務として課せられる、といった具合だ。
そうなると不完全義務違反が非難の対象でない理由も、わかるように思われた。そうした不作為を非難する人も同様の義務を負っているため、他者を非難できるような立場にないからだ。他人に対して非難している暇があったら、自分から率先して寄付すればいい。
こう考えることによって、井戸に落ちそうな子どもを見殺しにすると非難されそうなのも、ある程度は納得できる。その子どもを助けられたのは、その子どもが落ちそうになっているのを実際に目撃した人だけだ。そのためその子を助ける不完全義務は、その目撃者のみに課せられる。
目撃者が一人だけであれば、その一人が不完全義務を課せられている全体になるのだから、見かけとしては一人で完全義務を負っているのと変わらない。ゆえにたった一人の目撃者が子どもを助けなかった場合、そのことを知った人からは非難されるだろう。
しばらくわたしは、この考え方で満足していた。たとえば車道の真ん中で動けなくなっている病人がいるにもかかわらず、複数いた通行人が誰一人助けようとはせず、そのまま車に轢かれてしまったとしよう。その場合は具体的な一人の通行人というよりは、その時間にそこを通りかかった通行人全体に対して、非難が向くように思われる。もちろん具体的な該当者が知り合いにいたりしたら、その人を直接非難したくもなるだろうが、アクセスできる義務違反者が複数人いれば、それらすべての人を同様に非難したくなるだろう。
ところが2020年に、こんなニュースがあった。
コロナ禍の飛行機にマスクをせずに乗った人物が、他の乗客や客室乗務員とトラブルになり、飛行中に騒ぐなどして機内の秩序を乱すような行為があったとして、機長の判断によって途中で地上に降ろされたという。
インターネット上では、特別な事情がないにもかかわらずあえてマスクをしないことに対して、否定的な意見が多かった。常識的な感覚に照らしても、当然そうなるだろうと思う。
だが考えてみれば、ウイルスの飛沫感染を防ぐためにマスクをするというのは、社会上のリスクを減らすための行為なのだから、不完全義務ということになるはずだ。先の定義によると、そうした不完全義務は乗客や乗務員一人ひとりが負っていて、その全体に対して感染リスクを減らすという完全義務が課せられる。
慈善活動や井戸に落ちそうな子どもを助けるという行為は代替可能なので、すべての人がやらなくとも、不完全義務を負った人たちのうちの誰かがやりさえすれば完全義務は達成され、ほかの義務者が責められることはない。それと同様に考えるなら、マスクをするのも不完全義務であり、ほかの人が代わりにやればいいのだから、マスクをしなかったからといって、ほかの人たちから非難されるいわれはない。
もちろん、この考え方はおかしい。常識的に考えれば、他者の健康をなるべく害しないためにも、航空機内でマスクをする義務はほかの人がやっているからといって、自分はやらなくてもいいというわけにはいかない。
これに関しては、航空会社には乗客にマスクの着用を強制する法的な権限がないのだから、マスク着用を強制すべきではないと批判してくる人がいるかもしれない。だがここでは法律の話ではなく、道徳の話をしている。マスクをしないことが他者に危害を与える可能性が考えられるなら、客観的目的に反する行為として禁止されるべきだろう。
またマスクが感染を防ぐ効果への科学的根拠に疑義があると主張する人もいるかもしれないが、少なくとも当時の一般的な認識としては、マスクをしないよりはした方が、感染しづらくなると考えられていた。前章の自由に関する萎縮効果の話でも説明したように、悪い結果を確実にもたらすような原因が実際に発動しなかったとしても、悪い結果をもたらす可能性があるという、原因可能性の存在を感じさせるだけで、他者に不利益をもたらすことがあるのだ。
ではなぜたった一人がマスクをしないだけで、あそこまで責められることになったのか。
それは一人でもマスクをしない人がいることで、ウイルス感染のリスクを最小限にするという<目的が達成できない>からだと考えられる。
そうした目的さえ達成されるなら、マスクをせずとも、たとえばあらかじめ客室乗務員に相談して、ほかの乗客とは距離をとれるような席に移動させてもらうなど、異なる手段をとることによって、おそらく他者から非難されることは避けられただろう。
以上を踏まえれば、完全義務と不完全義務の区別は、次のようになると考えられる。
――完全義務とは主観的目的および客観的目的と<矛盾する>要素を除去する義務のことであり、そのために複数ありうる手段から必要と考えるものを、選択して実行することが不完全義務として課せられる。




