義務の分類(1) ~自己に対する義務と他人に対する義務、完全義務と不完全義務~
完全義務と不完全義務という言葉は、多くの人にとっては耳なじみのないものだろう。だがわれわれがこの重要な遺産を近代に置き忘れてきたことにこそ、現代社会にいくつかの混乱と分断を招いている要因の一つがあるのは間違いないと思われる。
たとえばマイノリティが権利を求めて声を上げたのに対して、それをマジョリティへの逆差別だとして一部の人が反発するといった構図が、今の時代にはよく見られる。これは完全義務の要求を不完全義務の強要と誤解しているために生じている場合もあるし、あるいは正当な権利をもつのは完全義務の要求までなのに、不完全義務までも当然要求できると考え、いきすぎた要求を実際にしてしまっていることもある。
どちらにせよ、完全義務と不完全義務の区別がしっかりなされるなら、正当な要求と不当な要求の区別も容易になされ、道徳の成功確率は格段に高まることだろう。義務の混同は上に挙げたような社会問題のみならず、日常の些細な問題も数多く引き起こしている。世の中がより自由で生きやすいものにするためにも、これから説明する事柄が一人でも多くの人と共有されることを願う。
とはいえ言葉自体は一般的でなくとも、こうした区別自体は、人びとは自然とおこなっていることが多い。実際に次のように問えば、ぴんと来る人は多いだろう。
誰かに暴力を振るうことを、禁止してもいいだろうか。前章で示したとおり、これは許されるべきだという意見に、わざわざ反対する人はあまりいないだろう。
それでは、次の問いはどうか。私財を恵まれない人に寄付することを、誰かに強要することは許されるだろうか。これにはおそらく少なくない人たちが、否と答えるだろうと思われる。
このことを踏まえれば、意識的か無意識的かはともかくとしても、現代においても人びとは先の二つの義務について、ある程度の区別をしていると考えて間違いないだろう。
だがそこに当てはまる語をもっていない(失われた)がために、その境界は曖昧にならざるをえず、頻繁に混同されてしまう。
本章ではこれら二種の道徳的義務を区別する基準を明確にし、なぜ区別するべきなのかについての理屈をつけ、そしてこの区別が不明瞭なために曖昧になっているいくつかの道徳的概念について、改めて定義していきたい。
そうして明確になった定義はきっと、日頃の出来事に対して正しく厳密な判断をするのに、大きく役立ってくれるに違いない。
さて道徳的義務に関してカントは、「自己に対する義務」と「他人に対する義務」、「完全義務」と「不完全義務」という二つの区別を組み合わせて、計4種に分類している。
完全義務とは「傾向[感性的な欲求や感情]に都合のよいような例外を少しも認めない義務」(*1)であり、そうでない義務を不完全義務という。
あるいは「完全義務とは、それを満たして当然で(ゼロ評価)、満たさなければ責められる(マイナス評価)ような義務のこと」であり「不完全義務とは、それを満たせば功績となり(プラス評価)、満たさなくても責められない(ゼロ評価)ような義務のこと」(*2)という説明の方が、非難や称賛という外形的現象が基準に用いられており、直観的に理解しやすいかもしれない。
*1 カント「人倫の形而上学の基礎づけ」(野田訳)328頁。[]内は引用者による言い換え。
*2 石川文康『カント入門』168頁。
カントはこれらの義務の分類に関して、次のように具体的な例を挙げている(*3)。
(1)自己に対する完全義務には、自分の生命を守るように努めることがあり、自殺はこの義務に違反する。
(2)他人に対する完全義務には、他者との約束を守ることがあり、返せないと知っていながら、期限までに返せると嘘をついて金を借りることは、この義務に違反する。
(3)自己に対する不完全義務には、自分の中にある才能を伸ばすよう努力することがあり、そうした生まれつきの才能をほうっておくことは、この義務に違反する。
(4)他人に対する不完全義務には、困窮している人を援助する慈善活動があり、他人が幸せにしてようが困窮していようが自分にはなんの関係もないといった無関心は、この義務に違反する。
*3 カント「人倫の形而上学の基礎づけ」(野田訳)286~290頁。
問題となるのは、こうした義務の分類が、どのような基準によっておこなわれるかだ。
非難されるか称賛されるかはわかりやすい基準のようにも思えるが、なぜその義務違反が非難されるのか、あるいはその遂行が称賛されるのかについて明確に説明できた人は、長い西洋哲学の歴史においても、いまだに存在しない。
自己に対する義務と他人に対する義務の区別なら、特に難しいことはない。
自己に対する義務である自分の命を守ることや自分の才能を伸ばすことは、他人に利益や不利益をもたらすと断定できるようなものではなく、通常は直接に主観的目的を維持促進する手段としておこなわれる。
一方で他人に対する義務である約束を守ることや困っている人を助けることは、社会上のリスクを減らす(増やさない)行為なので、客観的目的にかかわる行為だといえる。
したがって自己に対するか他人に対するかは、主観的目的と客観的目的のどちらの促進を意図しておこなわれるのかで区別できる。
とはいえ誰もが同じ世界で生きている以上は、自己と他者の境界はそこまではっきりしているわけではない。自分のためにおこなった行為が他人に影響を与える可能性はつねにある。そのためこの区別は、あまり厳密なものとはいえないだろう。自身の才能を伸ばして活躍することが社会の役に立つことも、困っている人を助けたことがのちのち、その人の恩返しや、周囲から信用を得ることにつながることで、自身のためになるということだってありうる。
完全義務と不完全義務の区別についてはどうだろうか。
歴史的には「正義が完全義務で、慈善が不完全義務という伝統的な枠組みが、ずっと長く影響力をもってきた」(*4)。ただこれだと正義とは具体的になんのことかが不明瞭だし、なぜ正義とは違って慈善が不完全義務となり、それをしないことが非難を免れるのかもよくわからない。
問題はあくまで、なぜそのような区別がなされるのかということだ。となると、これらを明確に区別するには、もっと別の基準が必要になりそうだ。
*4 加藤尚武「完全義務と不完全義務:J・G・ヘルダーとの関係を中心に」『実践哲学研究』20号、京都大学、1997年、137~142頁(京都大学学術情報リポジトリKURENAI 紅、http://hd1.handle.net/2433/59206、2020年11月18日閲覧)。




