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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第五章 道徳的義務を意味づける
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完全義務と不完全義務の関係性

 リスクを増やす行為は、即座に生命の保全や社会の安全といった理念と矛盾する。そのためリスクを増やす行為は、手段の選択にかかわらず完全義務に違反する。

 一方でリスクを減らすという目的に対しては、具体的にどのような手段がそのためにもっとも役立つのかに関して、確実な答えを提示できる人はいない。そのためどの手段を選択するかは、各々の判断に任せられる必要がある。

 不完全義務はその性質上、すべてリスクを減らす方向に向かっている。ただしリスクを減らすという目的そのものは、完全義務として目指さなくてはならない。なぜならリスクの存在そのものが、理念と矛盾するからだ。


イメージとしては図5のようになる。

挿絵(By みてみん)


 完全義務と不完全義務という概念分類の歴史は、古代ストア派にまでさかのぼることができる。長い歴史でその違いを説明しようとした人たちが数多くいる分、これらの義務には人によって、さまざまな概念との混同が見られるようだ。

 ミリャード・シューメーカーはT・D・キャンベルのリストを拡張する形で、完全・不完全義務という用語が歴史的記録の中でどのような英語の形容詞のペアによって表現されてきたのかを、計25組のリストにしている(彼によると、このリストもまだ完全ではない。実際このリストには、カントによる必然的/偶然的の区別は含まれていないし、『愛と正義の構造』邦訳者が訳註で引用している『ヨアヒム・リッター編哲学事典』で説明されている、J・G・ヴァルヒによる必要的/便宜的の区別も入っていない)(*1)。

 とはいえそれらの概念が混同されてきたということは、リスト化された形容概念はすべて、前節で定義した完全・不完全義務の概念と、なんらかの形で関係づけられるということを示唆している。すべてを実際に関係づけていくのは、さすがに冗長になりそうなのでやめておくが、そのうちのいくつかに関しては、本章でその関係をあきらかにすることができるだろう。


*1 ミリャード・シューメーカー著、加藤尚武・松川俊夫訳『愛と正義の構造――倫理の人間学的基盤――』晃洋書房、2001年[1992年]、10~14頁。ヴァルヒについて書かれている訳註は53頁。


 カントや石川によるものも含め前節の定義は、「完全義務」と「中間義務」の区別をはじめておこなった、古代ストア派の定義とはずいぶん異なっている。

 もともとは果たすことが通常の人間には困難な、理想的な道徳的義務を完全義務と呼び、そこに至るまでの中途にある、現実的な妥協点としての道徳的義務を中間義務としていた(*2)。それがやがて法学の分野において、外的強制力(刑罰)のない法を不完全の法と呼び、強制力のある法を完全な法と呼ぶようになった(*3)ことで、概念の混同が生じたのだと思われる。

 つまり完全義務という言葉の意味が、困難であるために必ずしも果たせなくとも許されるような義務から、強制されてもしかたのないような、果たして当然といえるような義務へと、真逆といっていいような意味へと転換されてしまった。

 カントはドイツ法学の影響を受けているために後者の、当初から逆転された意味での完全・不完全の言葉を用いていた。とはいえ、それ以外に多く混同されたさまざまな概念を、もっとも統一的に説明できるといった有用性の観点から、本稿でも逆転された意味を基本にし、古代当初の概念にまで定義を巻き戻すようなことはしない。


*2 シューメーカー『愛と正義の構造』19~34頁。

*3 同、34~48頁。


 本章の定義を前提にすることで、不完全義務に反する行為を非難しないことにも、意味が出てくる。

 不完全義務の未履行を責めること、なにかをしないからといって非難することは、特定の手段の実行を強要することにつながる。それは経路の選択に外部からの強制が加わるということなので、端的に自由の侵害といえるだろう。

 たしかに前章では非難は自由を制限しないとは述べたが、それは作為あるいは不作為に対して非難されたことが、それを受けた行動をした人にとっての、免責事由になるわけではないという趣旨だった。非難が相手に不快感を与え、その行為への心理的抵抗を覚えさせるのは間違いないので、正当な行為(不作為含む)への非難はないに越したことはない。そのため執拗に非難して正当な経路選択を断念させようとすることは、自由の侵害行為といって差し支えないだろう。

 特定の手段を強要することは、手段の多様性を狭めることにつながる。何度もいうように、なにがなんの役に立つのかは、誰にもわからない。なので手段の多様性が狭まると、主観的目的や客観的目的を効率的に促進できる確率が、それだけ減少することになる。つまり不完全義務違反が非難されない理由は、人間が自由であるべき理由と、ほぼ同じだといえる。


 社会上のリスクを積極的に減少させようとする不完全義務の性質から、その実行は必ずしも特定の誰かである必要がないということも多い。その場合は誰かを非難して不完全義務を強要するという方法をとらずとも、非難している人が自分でおこなうことも十分可能だろう。

 それを自身で実行するのではなく、他者に強要しようとしている人がいたとしたら、それは他者の行為で社会の価値を高め、その利益を自身が享受しようとしていることになるから、そのために他者を一方的に利用しようとする行為であって、たんなるただ乗り(フリーライダー)にすぎない。

 これはカントの定言命法・目的の方式(他者のことをつねに同時に目的として扱い、決してたんに手段として用いてはならない)違反であり、たとえ本人は正当な目的の促進を意図していたとしても、社会にとってはたんなる迷惑行為でしかない。


 カントが完全義務を「傾向に都合のよいような例外を少しも認めない義務」と定義した理由も、これでわかるだろう。

 不完全義務が各々の価値観にしたがって実行されることで最大のパフォーマンスが発揮されるのに対して、完全義務は違反が即座に理念と矛盾するため、価値観の違いや好き嫌い(すなわち傾向に都合のよいような例外)の影響を受ける余地がまったくない。


 完全・不完全義務についての基本的な考え方は、以上のようになる。

 次節では先ほどのカントの例に、新しく定義した完全・不完全義務の概念を当てはめてみよう。

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