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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第四章 自由を意味づける
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合意、自由の調整、差別、譲り合いと自己犠牲

 定言命法の目的の方式で人をたんなる手段にすることを禁止しているのは、その人の目的(につながる経路)を尊重しないことが、自由を阻害することにつながり、結果として危害を加えるのと同様の効果をもたらす可能性があるためと理解できる。

 反対に互いの意志を尊重し合えてさえいれば互いを手段として利用しても許されるのは、その取引が互いの経路の交点となり、ゆえにどちらも主観的目的が阻害されるおそれがなく、むしろ促進されることになるからだといえる。


(合意)

 図4-2はコンビニでジュースの売買がなされる際に、客と店員の経路が交差する様子を表している。

挿絵(By みてみん)

 客は商品を購入するために店員を利用し、店員は給与を得るために客を利用している。

 しかしともに自身の主観的目的を促進するためにおこなっていることなので、誰の目的も阻害されるおそれがない。よって客観的目的にも適合的となり、お互いの行為が正当化される。このように異なる人の経路(意志)が交点をつくって重なることを「合意」と呼ぶ。


(自由の調整)

 ところで他者の自由を侵害しないことが、みずからの自由を阻害するように思えることもあるかもしれない。

 そのように自分と他者の自由が衝突するときは、どうすればよいのだろうか。もちろんその場合には、道徳範囲を拡げることで解決していくことになるが、それは次のような手続きを踏むことによって可能となる。

 まず目的と手段は総合的な関係にあるので、一つの目的に対して手段候補は複数ありうる。ならばお互いにほかの手段で目的を達成できないかを検討し、代替手段を採るコスト(不利益)が小さい方が譲歩する形になれば、不利益は最小限に抑えられる。

 もしお互いに現在選択しているものが唯一の手段であるように思えるならば、経路上の項を一つ目的側に辿り、同様の検討を繰り返していく。こうすることで互いの主観的目的に矛盾しない形で、調整をおこなえるはずだ。


 ある行為によって不利益を与えられる側が、さほどコストをかけずに代替手段をとることで不利益を避けられるなら、不利益を与えられる側が譲歩して代替手段をとる方が理に適っている場合もありうる。

 つまり今述べた手続きによって経路を再構成し、自由の侵害状態を解消して不利益を回避できるなら、ある時点で他者の自由を侵害する行為が即座に禁止されるべきだとは限らない。これらを念頭に置いておくことで、利害の対立というものは、大部分解消できることだろう。


 具体的な事例として、哲学者のマイケル・サンデルが著書で紹介している、大学の入学選考におけるアファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)について考えてみよう。当事者にとっては自身の計画に直接影響する分、感情的な反応となりやすい問題ではあるが、右の調整メカニズムを用いれば合理的な解決ができるはずだ。

 アメリカの大学では受験者の人種別の合格率の差を是正するため、マイノリティの学生を入試で優遇することがある。そうなるとたとえ入学試験の点数が同等でも、場合によってはマイノリティの学生より白人の学生の方がよい成績であるにもかかわらず、前者は合格しているのに、後者は不合格になるという事態が生じる。当然そのために不合格となった学生は面白くない。逆差別ではないかと、訴訟になった事例もある。

 この問題は白人の学生側の自由(入試成績のみで志望大学に入学する自由)と、大学側の自由(入学者を選抜する方法を決める自由)が衝突したものとして理解できる(マイノリティの学生の意志によるものではないので、マイノリティの学生の自由の問題ではない点には注意)。

 こうした問題を調停するには、まずはそれぞれが、なにを目的にしているのかを把握する必要がある。

 学生が大学(あるいは大学院)を受験するのは、学習や研究のためであったり、卒業資格を得るためと推測できる。一方で大学がアファーマティブ・アクションをおこなう目的は、テキサス大学やハーバード大学が主張するように、学内環境や社会で活躍する卒業生の人種的多様性を促進するためと考えることにしよう(*1)。


*1 マイケル・サンデル著、鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』早川書房、2010年[2009年]、217~223頁。


 まずは学生側から。

 学びや研究は特定の大学でなければできないわけではなく、ほかの大学を受験するという代替手段がある。もし特定の教授に師事したいなど、特定の大学でなければならない理由があるとしても、学力を上げるなどの手段もある。

 学力を上げることはその後の人生に大きな利益をもたらしてくれることも考えられるので、そのための努力を余計にしなければいけないことが、即座に不利益だとはいえないだろう。もし学力を上げなければいけなくなることが差別的なのだとしたら、入学試験による選抜自体が差別ということになってしまう。

 学力を上げるのがどうしても無理そうであれば、経路上で注目する項を目的側に移動し、特定の教授に師事したいのがなんのためかを考えてみよう。それも結局は学ぶため、あるいは研究のためだとしたら、なにかしらの代替手段はあるはずだ。


 対して大学側の多様性確保の手段として、ほかにどのような方法が考えられるだろうか。

 マイノリティの学生を特別に対象にした無償授業をして、直接に学力を上げやすくするといった方法ではコストが大きいだろうし、これはこれで逆差別という批判がなされる可能性がある。ほかの方法で人種的多様性を確保しようとするのも、なかなか困難に思える。

 項を目的側に移動しても、多様性の目的が社会の可能性を増やすことで、人種の偏りが社会価値向上のボトルネックになっているとしたら、目的をうまく達成できるような手段がほかにもあるとは思えない。


 よって学生と大学双方の目的に矛盾しない形にするためには、譲歩すべきは学生側だということになる。

 もちろん大学側がアファーマティブ・アクションをとっていることをあらかじめ公表しておき、学生たちが必要な学力等を見誤り、間違った目的を設定することを防ぐといった配慮はする必要がある。学生が主観的目的を促進するために適正な経路を選択して実行していく計画を、無意味に狂わせるのは避けなければならない。経路の構成を誤ったことにあとから気づき、経路を再構成しなければならない状態になると、小さくない不利益を被ることになる。それまでの行為に無駄が発生したり、最適なタイミングを逃したりする可能性があるからだ。

 ここで大学側の主張を認めることは、学生側の利益を軽んじていいということを意味しない。


(差別)

 不公平が問題となるのは、主観的目的の尊重のされ具合に差があるときだ。差別というためには、特定の人たちの目的の促進ばかりが意図され、ほかの誰かの目的や経路がないがしろにされている必要がある。

 しかし受験生と大学はお互いの経路が交点をなす入試という手段によって、お互いがお互いを手段として利用しあっているにすぎない。大学側からすると、入試の成績のみを使った選抜では、手段として適切ではなくなったということにすぎないのだ。

 大学から見て受験生に認めている人格は、同じ資格においてある。決して白人の学生の目的を犠牲にすることで、マイノリティの学生の目的を優先して促進することを意図しているわけではないのだ。それに加えて学生側にも代替手段が十分にあるという事情によって、その不利益には(論理的にも因果的にも)必然性がなく、客観的目的に矛盾することもない。

 よってアファーマティブ・アクションが逆差別だということはできない。


(譲り合いと自己犠牲)

 お互いの自由が衝突する際におこなわれる調整は、いわゆる「譲り合い」の一種だが、譲り合いと自己犠牲は区別する必要がある。前者は必要な分を超えて欲求しないことであるのに対して、後者は必要な分まで欲求しないことを指している。

 欲を満たすことそれ自体を目的にすると必要量の際限がなくなるが、生存確率を高めるという具体的な主観的目的を意識するなら、各要素における必要量は有限となる。あるものを欲求せずとも目的の促進に支障を来さないのなら、そのあるものを欲求することをやめたとしても、それは不利益を受けた(犠牲になった)ということにはならない。

 したがって自由の調整でおこなわれるような譲り合いは、道徳的なふるまいといえるが、自己の目的と両立できないような不利益を無理に受任する自己犠牲は、自分の主観的目的に反するがために客観的目的にも反し、道徳的とはとてもいえない。


 ときに自己を蔑ろにして他者に尽くすような、行きすぎた利他行為が道徳的とされることがあるが、それはただの誤解だ。

 利他行為が道徳的になるのは、それが自身の不可欠な目的を阻害しない場合に限られる。そして自身の目的を促進する行為が正当化されるのも、他者の目的を阻害しない場合に限られる。このようにしてお互いの目的を阻害せず、お互いの目的が両立可能であることが、道徳的正当性の条件となる。

 ただ気をつけなければならないのは、自分の目的の促進を阻害するほどの自己犠牲をみずから進んでおこなおうとする人は普通いないとしても、そうした自己犠牲を他者に要求する人はいるということだ。

 そのように犠牲になることを要求できるのは、相手のことを道徳範囲に含めていないからだということを、忘れてはいけない。それに加えて、自分が道徳範囲に含められていないことに気づいていないために、相手のことを信用してしまい、自己犠牲の要求を受け入れてしまうこともありうる。

 そのあたりを区別するためには、相手の言動がどのような客観的目的と整合しているのかを、注意深く観察する必要があるだろう。

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