表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第三章 手段と様相を意味づける
30/151

優生思想の誤り

 ホロコーストの根拠とされたことで悪名高い優生思想は、遺伝形質に優劣をつけ、優秀な遺伝子だけを後世に残すため劣った遺伝子を絶やそうとする。この思想は日本でも優生保護法によって障害者などへの強制不妊手術をおこなう根拠とされ、多くの問題を引き起こしてきた。

 今となっては忌み嫌われている考え方ではあるが、当時は多くの人に説得力を感じさせたからこそ、ここまで大きな問題を生じさせてきたのだろう。

 なぜこの考え方が正しく感じられる人がいるのだろうか。この考え方を感覚的な道徳感情によらずに、どこがどう誤っているのかを論理的に説明する方法はあるのだろうか。


 道徳的な誤りに関しては今までおこなってきた説明を用いて、障害者やユダヤ人を含めた道徳範囲の客観的目的に反しているため、社会の価値を下げることになると述べれば終わる。

 だがここでは優生思想家の前提に、そもそもの根本的な勘違いがあるということも指摘しておきたい。その根底には、因果関係の性質についての無理解がある。


 優生思想の前提には、優秀な遺伝子をもつ個体どうしで生殖をおこなえば、さらに優秀な個体が生まれるだろうという考え方がある。実際に人は競走馬や犬種、植物などで人為的に選抜した個体どうしを掛け合わせ、望みどおりの特徴をもった生物をさまざまにつくり出してきた。

 この人為選抜の仕方を人間にも適用しようとするのが、優生思想という考え方だ。劣った遺伝子を人為的に淘汰しようとするのも、この方法を反対に適用したものにすぎない。


 ただしここには重大な見落としがある。

 ダーウィンが指摘しているように「飼育栽培品種に見られる注目すべき大きな特徴は、その動物や植物自身の利益ではなく、人間の使用や愛玩という目的をかなえるための適応である」(*1)

 つまり人為選抜による淘汰は、注目する特徴の価値を決めるための目的に、選抜する人間の目的を設定しているのであって、その個体や子孫が自然の中で生存闘争に打ち勝てるような進化が目指されているわけではない。

 足の速さばかりを追い求めてすぐに骨折してしまうサラブレッドでは、人間の助けなしに自然の中で生き抜いていくことなど到底望めやしない。ましてや犬が小さくてかわいらしいことが、どのようにして生存繁殖に役立つというのだろうか。

 競馬のレース中のような短時間の限られた環境でのみ役立てばいいのなら、どのような能力が必要なのかを特定するのはたやすい。だがつねに環境が変動しうる複雑な自然や社会の中にあっては、どのような進化が望ましいのかを知る手段を、われわれは一切もち合わせていない。知能指数の高さが必ずしも社会的な成功や他者への助け(道徳)に結びついていないことは、現実社会においてあきらかな事実といえるだろう。


*1 ダーウィン著、渡辺政隆訳『種の起源(上)』光文社古典新訳文庫、2009年[1859年]、63頁。


 このことは一つの結果は複数の(無数の)原因から生じているという因果関係の性質によるものであって、ダーウィンはそのことを正しく理解していた。

 彼は「生物が他の生物をしのぐためにはどのような利点を授ければよいだろうか」という問いには答えられないことに、注意を促している(*2)。

 どのような結果も手段という一つの原因だけで決まるわけではなく、手段と環境の相互作用によって決まる。ダーウィンは特に進化的な適応形質は、他の生物との相互作用によって決まると考えていた。そうした相互作用を完璧に予測することなど、われわれのような不完全な人間にできるわけがないだろう。


*2 ダーウィン『種の起源(上)』(渡辺訳)148頁。


 そもそも進化とは、ある特徴が結果的に環境との関係で生存に役立ったという過去の出来事から、現在の生物にまで受け継がれてきた遺伝子の状態を結果論的に説明するものでしかない。

 それはなにかの目的を志向しておこなわれてきたものではないし、生存繁殖に不利な遺伝子はまさしく自然に淘汰されるのだから、わざわざ人の手を加えるようなことをせずとも、環境に適応した形質をもつ遺伝子はこれからも受け継がれていき、人間も含めた生物は放っておいても勝手に進化していく(ちなみに退化も進化の一種)。

 そこに善いや悪い、優劣といった価値評価が入り込む余地はない。あるときには価値があった形質も環境が変化することで、別のときには不利な特徴になっているということも十分にありうる。


 理論的な誤りはこれだけで十分に指摘できていると思うが、わたしは正直なところ、優生思想を支持していた人の本心は、人間は進化すべきだからではないように思っている。

 人間にはまず主観的目的が所与のものとして与えられ、次いでその目的に役立つ手段を目的に結びつける形で、手段と目的の連鎖が構成されていく。つまり目的が先に設定され、手段の決定はあとからおこなわれる。

 その一方で人間には手段を先に決め、その手段をどのような目的に役立たせられるかを考えるという思考方法もある。これは手段となりうる資源の無駄を減らし、パフォーマンスを高めるために備わっている機能とみることができるだろう。

 役立つ人間と役立たない人間を選別しようとする優生思想は、この機能が誤用されたことにより生じたものと考えられる。人間をたんなる手段としてしか見ないような、カントの目的の方式に反するような考え方が先にあって、その考え方を正当化するために進化論が利用されたにすぎない。


 優生思想が忌み嫌われる理由は、それが手段として誤っているからでも、人間を進化させようとする(建前上の)目的が誤っているからでもなく、人間をたんなる手段にしようとする考え方にある。

 何度でも繰り返すが、価値とは目的との関係で決まるものであり、目的とは生物の中に主観的に存在するものでしかない。つまり誰かを手段として価値評価することがあるとするならば、それは必ず本人以外の誰かが、みずからの手段としてその利用価値を決めたということを意味している。

 だが人間はその内部に最終目的が含まれているために、たんなる手段にはなりえず、役立つとか役立たないといった次元を超越した存在になっている。したがって優生思想を否定するためには、次のことを指摘するだけで十分だろう。

 ――人のために社会があるのであって、社会のために人がいるわけではない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ