手段決定における論理的な可能性と必然性
客観的目的に反するかどうかなら、矛盾という信頼できる判断法がある。
その一方で客観的目的を促進する行為、つまり社会上のリスクを減らす行為には、矛盾のような、誰でも同意可能な基準を提供してくれるたしかな論理形式が存在しない。
ここに価値観の違い、慣習の違いが成立する余地がある。
日本では年上に敬語を使う慣習があるものの、年上に敬語を使わないことが安全な社会という理念に矛盾するわけではない。現に年上にも同年齢の人にも年下にも同じ言葉遣いをしているにもかかわらず、それによってリスクが増えたりしていない社会が西洋諸国をはじめたくさんある。
それでも日本社会では、言葉遣いによって上下関係が日常的に確認されることが、社会の秩序を保ち、安全な社会をつくることに役立つのだと考えられ、そのような手段が選択されてきた。
つまり価値観や慣習の違いとは、手段の違いにすぎない。なにがリスクを減らすことにつながるかに関しては、絶対唯一の答えがあるわけではないだろうし、もしあったとしてもその答えを、人間がどうして知ることができるのだろうか。
目的と手段の結びつきが可能性の判断であるということは、すでに述べた。
哲学者のダニエル・デネットによると、哲学の伝統では可能性はいくつかの種類に分けられる。論理的もしくは真理的可能性(論理的不可能性の補集合、つまり矛盾を含まないこと)、物理的もしくは法則的可能性(自己矛盾がないとしても、物理的に不可能なことがある)、認識的可能性(すでに知っていることと両立すること)の三つだ(*1)。
とはいえ物理的可能性は物理法則と矛盾しないことと言い換えられるし、認識的可能性も自身のもつほかの知識と矛盾しないことと言い換えることができる。そう考えると実は三種とも一つの定義、つまり論理的可能性にまとめることができる。これらの区別は可能性という形式の種類というよりも、どの要素を使って整合性を判断するかという実質による区別だと考えられる。
結局可能性があるというために必要なのは、矛盾がないということに限る。
*1 ダニエル・C・デネット著、戸田山和久訳『自由の余地』名古屋大学出版会、2020年[1984年]、216~217頁。
あらゆるパターンから矛盾しているもの(可能性がないもの)を取り除き、それでも残ったものに可能性があると判断される。そうした可能性のあるパターンが一つしかない場合には、その可能性を否定すると即座に矛盾が発生することになる。
分析判断の真理性をたしかめたときには、その述語を否定すると主語と矛盾することから、必然性があると判断された。つまり特定の可能性を否定すると矛盾が生じる場合には、その可能性が唯一のものと考えることができる。そうした唯一の可能性が、(論理的)必然性と呼ばれる。
手段の選択に関しても同様であって、目的に矛盾さえしていなければどんなものにでも、なにかに役立つ可能性は残っている。なんの役にも立たなさそうなものでも、実際はどう役立てられるのかがわからないだけかもしれない。害があるわけでもないものに対して、そんなものは役に立たないと安易に判断して切り捨ててしまうようなやり方では、そうした可能性をまるごと切り捨てることになってしまう。
そのため個人ごと、文化ごとに考え方が異なることにも、意味が出てくる。絶対に正しい答えはわからないからこそ、多様な手段の存在はそれだけ多くの可能性を手元に残すことにつながる。そのことが目的を効率的に促進するのに役立つわけだ。
試される手段が多くなればなるほど、それだけよりよい手段が見つかる確率は高まる。もちろん社会の最終的な目的に矛盾しない範囲でだが、それでもその範囲内で使える手札は多ければ多いほどいい。
リスクを増やす行為の禁止とリスクを減らす行為の推奨では、大きな違いがある。前者はほぼ確実な判断ができると考えて構わないが、後者はそういうわけにはいかない。
この区別ができていないために、多様性を守りたい思いが高じて相対主義に陥り、リスクを増やす行為の禁止でさえ絶対ではないと言い出すような人までが出てくる。これもまた、善悪を形式的に捉えてしまったがゆえの弊害といえるだろう。
このあたりの話は自由の必要性やその限界の説明に応用できるし、完全不完全という道徳的義務の定義にも役立つ。そうした話題については、次章と次々章で扱っていく。




