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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第三章 手段と様相を意味づける
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手段の決定と因果関係

 道徳判断の仕方について考察した際には、当たり前のように因果関係という言葉を用いていたが、実はこの関係概念がなかなかにやっかいなのだ。

 そもそも手段と目的の関係は、因果関係にもとづいて決定される。たとえばお腹がすいたときに目の前にあるおにぎりを手にとって食べるのは、目の前にあるおにぎりを食べれば(手段・原因)、空腹が満たされる(目的・結果)と考えるからだろう。


 だが実際には、その目的が確実に達成されるとは限らない。

 もしかするとそのおにぎりがすっかり傷んでいて、空腹が満たされるのではなく、お腹を壊してトイレにこもる羽目に陥るかもしれない。このときお腹を壊すという結果は、おにぎりを食べたこととおにぎりが傷んでいたこと、二つの原因が合わさって引き起こされる。

 このように複数の原因によって一つの結果が引き起こされるのはよくあることだが、その可能性は見過ごされがちだ。

 地球上でわたしが手にもった石を離せば、その石はまっすぐ下に落ちる。この結果は当たり前で絶対的だと思われるかもしれないが、もし隣にいた友人が投げた石が奇跡的にわたしの落とした石に空中でぶつかったとしたら、はじき飛ばされてまったく別の場所に落ちるということもありうる。

 これはわたしが石を手から離したこと、地球上の重力、友人が石を投げてきたこと、石や大気の組成であったりさまざまな物理法則やらといった、無数の原因の共同作業による結果だ。人間の立場からすると、それらすべてを完璧に操作して、特定の結果を確実に引き起こすのは不可能だといっていい。

 したがって一つだけ言えるのは、この世界で起こる結果というものには、絶対などというものは絶対にないということだ。


 このことはつまり目的に対する手段の関係も、絶対確実ではないことを意味する。目の前にあるおにぎりを食べるのではなくて、冷凍庫で保存している肉まんを解凍して食べた方が、腹痛を起こさずにうまく空腹を解消することができたかもしれない。

 だからといって空腹になったときに、目の前におにぎりがあれば食べるという行為が間違っていたということにはならない。少なくともそのときにはおにぎりが傷んでいることを知らなかったのだから、おにぎりが傷んでいたことを知ってから、おにぎりを食べるのは間違っていて、そうではなく冷凍庫の肉まんを食べるべきだったというのは、たんなる結果論にすぎない。結局はなにがなにに役立つかなど、確実なところは誰にもわからないのだ。


 だから目的と手段を結びつけるのはあくまで、<可能性>の判断だということになる。人が目的に対して手段を結びつけるのは、それが確実に目的を達成すると知っているからではなく、目的を達成する可能性があるから、ひいては目的を達成できる確率が高いと考えるからだ。


 道徳でも同じだ。なにが確実に客観的目的を促進するかについては、実際のところ知りようがない。「すべての原因と結果との結合は、同様に[どれも等しく]必然的であり、それがある事例において不確実であるように[異なる結果を生み出すように]見えるのは、たがいに反対の原因の隠れた対立から生じるのである」(*1)というのはヒュームのいう哲学者たちの一般原則だが、複雑な因果の網の目でできているこの世界では、どのような原因が絡んでくるかを完全に予測することはできず、予測と反対の結果はいつでも起こりうる。

 風が吹けば桶屋が儲かるかもしれないし、儲からないかもしれない。南米で蝶が羽ばたいたせいでテキサスで竜巻が起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。結果を完全に予測できるのはせいぜい全知全能の神かラプラスの悪魔ぐらいなもので、不完全な認識能力しかもたないわれわれ人間には、逆立ちしても不可能な話だ。


*1 デイヴィッド・ヒューム『人間本性論 第1巻』160頁(T 1.3.12.5, SBN 132)。[]内は引用者による言い換え。


 これはつまり、なにが正しいのかを完璧に判断できる人間などいないということだ。

だとすると正しいことは人によって異なるという相対主義的な考え方が、結局は正しいということだろうか。このままでは善悪が、たんなる人間の思い込みになってしまう。


 そこで使われるのが矛盾、ひいては論理という仕組みだ。

 先に述べたように矛盾しているかどうかの判断は、人によって異なりはしない。矛盾を用いた判断には、矛盾しているかしていないかの二通りのパターンがある。前者のときに人は可能性がないと判断し、後者で可能性があると判断する。


 つまり人はたとえなにが確実に目的の促進に役立つのかはわからないとしても、なにが役立つ可能性がないのかは知ることができる。言い換えればなにが正しいのかはわからなくても、なにが間違っているのかはわかる。そして間違ったことをせず、間違いを是正していくことこそが、どんな人でも自信をもって正しいと主張できる事柄となる。

 たしかに矛盾しているように見えることが、本当に両立することがありえないのかというと、そうとは言い切れない部分がある。

 たとえば東に車で一〇分進んだ先にあるデパートに行きたいのに、あえて西に進むような行動は、その目的と矛盾している。だが西に進んでみると速度を出しすぎたせいで交通事故を起こしてしまい、病院に運び込まれると幸い軽傷で済んだものの、念のため検査入院することになったとしよう。一日中ベッドの上だとあまりに気が滅入ってしかたがないので、看護師に相談して、気晴らしに少しだけ外出していいことになった。そこで病院を出てみると、そこはもともとの目的地だったデパートのすぐ目の前だった。

 というようなことも、絶対にありえないわけではないだろう。この場合は矛盾した行為をしたのに、目的地にたどり着けたわけだ。


 とはいえそのような確率は、無視してもかまわないほどに小さい。東にある目的に向かいたいのにあえて西に進むなどということは、通常の判断力をもっている人であればまずしない。素直に東に進んだほうが、目的を達成できる確率はあきらかに高いからだ。

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