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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第三章 手段と様相を意味づける
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悪という「存在」

 矛盾によって判断できる悪とは、あくまで特定の行為に対する評価でしかない。しかし現実では、誰か特定の人物に対して悪だと評価することもあるだろう。ヒトラーの行為が悪だというよりも、ヒトラーその人を悪だと考える人は多い。


 場合によってはヒトラーの名前や、写真や映像から伝わる彼の姿などに、強い嫌悪感を抱くこともありうる。そうした嫌悪感を理由にして、人はヒトラーを悪だと判断しているのではないかと考える人もいるだろう。メタ倫理学説の客観主義を正しく感じる人の中には、客観的な対象としての悪には嫌悪感を抱かせるようななにかが備わっているとして、そうした感覚を根拠にしている人もいるかもしれない。


 だがそうした嫌悪感は、ヒトラーの存在に悪の要素が含まれているからというよりは、古典的条件づけ(レスポンデント条件づけ、いわゆる条件反射)によるものとして説明できる。

 誰かがヒトラーによってホロコーストがおこなわれたことをはじめて知り、まずホロコーストによるユダヤ人虐殺が自身の志向する客観的目的と矛盾するとして、その行為を悪と判断したとしよう。その判断結果によって生まれた不快感が、その行為主体であるヒトラーの名前や容姿といった要素と関連づけられ条件づけされる。

 すると次回以降、ヒトラーの名前や映像を認知した際に条件づけられた不快感が生じるようになり、その不快感をもとにしてヒトラーを悪であると(再度)判断することになる。つまりヒトラーの存在自体から価値判断をしているわけではなく、ヒトラーがもっている要素と同じものを見たり聞いたりしたことで、悪と判断したことを思い出しているにすぎない。


 こうした仕組みはコンピュータ関連でよく用いられている、キャッシュという技術によく似ている。当然ながらキャッシュする結果を生み出したもともとの判断が間違ったものであれば、二度目以降は間違って保存されたデータ(結果)を繰り返し使い続けることになる。嫌悪しているという事実には、その嫌悪をもたらすことになったもともとの道徳判断が正しかったという保証はない。

 さらにやっかいなのは、そうした嫌悪を引き起こすキーとなる要素が、行為主体そのものではなく、行為主体の一要素(属性)でしかないということだ。そのことがもともと判断対象とした個人ではない、別の個人に対しても同じような嫌悪感を生じさせ、偏見や差別を生み出すことになる。

 もちろん嫌悪感の中には、たとえば腐った食べ物や糞便に対する嫌悪のように、進化の過程で身につけてきたと思われるような、本能的な嫌悪感というものもあるだろう。これらは雑菌など病にかかりやすくなるものから距離をとり、生存確率を高める適応として考えることができる。

 だが人間への嫌悪はそうしたものとは違い、あきらかに後天的な学習によるものだ。経験的に身につくものなので必然性はなく、偶然的なものにすぎない。


 以上のように人に対する嫌悪には、間違いが混入する余地はいくらでもある。一要素をもとにして悪判定するのは、主観的な確率によるものにすぎず、客観的な根拠にはならない。狭い道徳範囲では排除対象だと思われた人でも、道徳範囲を拡げてみるとむしろ、救済の対象だったということもありうるだろう。

 価値判断の仕方を考えれば、価値の十分な原因となるのは目的と手段の<関係>であるのに、その判断結果に伴って生じる快不快の感情が、その手段(実在しているもの)に条件づけされるために、人はしばしばその手段が価値の十分な原因であるかのような錯覚を引き起こす。これも一種の概念の混同(関係概念を手段となる存在概念と同一視する)といえるだろう。

 人に嫌悪を感じるときはいったん冷静になって、それがたんなる条件反射にすぎないことを思い出す必要がありそうだ。

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