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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第三章 手段と様相を意味づける
27/151

悪について、ソクラテスのパラドックス

 客観的目的と矛盾した行為、つまり客観的に間違った行為は誰にとっても間違っている。言い換えれば、悪行は誰にとっても悪行だ。

 だが実際には、この世界には悪をおこなっている人間がいる。矛盾が誰にとっても同じ判断をもたらすというなら、世にはびこる悪人たちはみな、自分のおこないが間違った行為だと知った上でそうしているのだろうか。

 悪の代表ともいえるナチス・ドイツの、ヒトラーを例にして考えてみよう。

 図3を見てほしい。

挿絵(By みてみん)


 ここでは内部社会型の形で、道徳範囲の不一致がある。ヒトラーがおこなったホロコーストは人びとの間にリスクをもたらすものであって、客観的に間違った行為であることは明白だろう。


 しかしそれは、被害者になった障害者や、ユダヤ人を道徳範囲に含めて考えた場合に限られる。彼ら彼女らを除いたドイツ国民たちにとって安全な社会という理念に対してなら、どれだけ残虐な行為があったとしても矛盾はない。

 ホロコーストがあっても、ユダヤ人以外のドイツ国民が安全に暮らしている世界はありえるだろう。苦しむ障害者を見て見ぬふりをしていれば、ナチスの標的にならなかった人たちが自分は幸せだと思い込むことは不可能ではない。

 ナチス党員やナチスを支持していた人びとは、あらゆる属性の人びとを含めたSを志向せず、都合よく一部の人を除いたS'を志向していたために、本人の中では整合性がとれていたのだろう。

 前章で道徳範囲とは共感の範囲でもあると述べた。つまりユダヤ人たちに対して残虐な行為が可能となったのは、ユダヤ人たちに対して共感していなかったからだと考えられる。

 よって実際に善悪の違いを生み出しているのは、客観的目的を促進するのか反するかという垂直的な要素ではなく、道徳範囲に含めているかいないかの水平的な要素によるものだといえる。悪をおこなう者は共感の範囲が狭く、そのため<本人の中では>矛盾がない。悪をおこなっている人は、そもそも志向している客観的目的が別物であるために、平然と悪をおこなえるのだ。


 こう考えることによって、性善説を唱えた孟子の考えにはなぜ「『根源悪』が存在しない(存在しえない)」(*1)のかも理解できるようになる。

 孟子が採用する原則は「忍びざる感情を、他者の身に起こりながら忍びうるものにまで及ぼすこと、それが『仁』の感情である」(*2)「この仁の徳は、完全に拡充されれば、普遍性にまで至る」(*3)というものだ(「人皆忍びざる所有り。之を其の忍ぶ所に達するは、仁なり」*4)。

 この原則はあきらかに、共感の範囲でもある道徳範囲の拡大を求めるものだと理解できる。共感の範囲を拡げていくことで、人の道徳性は高まっていく。ここで問題とされているのは、相手を道徳の対象にしているかどうかであって、客観的目的に反しているかどうか(善悪)ではない。


*1 フランソワ・ジュリアン著、中島隆博・志野好伸訳『道徳を基礎づける 孟子 vs. カント、ルソー、ニーチェ』講談社学術文庫、2002年/2017年[1996年]、189頁。

*2 同、34頁。

*3 同、85頁。

*4 宇野精一訳『孟子』講談社学術文庫、1973年/2019年、460頁(尽心章句下)。


 繰り返すが行為する本人にとって悪とは、目的に反する行為をすることではなく、あくまで相手のことを道徳の対象にしていないということにすぎない。善悪とは行為する人から見て決まるものではなく、行為の対象側(他者)からの評価によって決まるものだ。

 性悪説を支持する人は、人間の行為というものを行為の対象(つまり被害者)の側から理解しようとしている。とはいえこれ自体は、悪を社会上のリスク、つまり自分が被害者となる危険性として忌避するという、ここまでに説明してきた道徳の目的からすると無理からぬことだ。だが行為はその対象となった人ではなく行為者の一部なのだから、行為の対象側から行為者の本性を定義するというのもおかしな話だろう。

 同じ人がある人には人間性を疑うような残虐な行為をしているにもかかわらず、家族や仲間といった別のある人には人が変わったように優しいということは、一般的な経験からしても十分にありうることだ。その違いは道徳範囲の内外で説明できる。

 道徳範囲は外から与えられるものではなく、人間の本性にもとづいたものだ。ならば人の本性の内に善の端緒があり、そうした善を拡大することで道徳性を高められるとする孟子の考え方でなければ、人の道徳性を理解することはできないだろう。


 ***


 以上のことを踏まえれば、ソクラテスの言うように「賢者であれば誰も、人間のなかにこころから過ちを犯したり、恥ずかしくて悪い行ないを、こころからする者がいるとは考えない。むしろ、恥ずかしいことや悪いことをする人はすべて、こころならずもそうしているのだということを、賢者はよく知っている」(*5)というのもうなずける。

 このように、悪とは無知によるものであって、悪を悪だと知っておこなう者はいないという考え方は、ソクラテスのパラドックスと呼ばれる。


*5 プラトン著、中澤務訳『プロタゴラス――あるソフィストとの対話』光文社古典新訳文庫、2010年、142~143頁。


 ところがソクラテスの孫弟子にあたるアリストテレスは「為すべきでない事柄にかかわる知識をもってはいるがそれを使用していない人と、知りつつ現に使用している人とでは、違いがある」(*6)として、こうした考え方を批判する。


*6 アリストテレス著、渡辺邦夫・立花幸司訳『ニコマコス倫理学(下)』光文社古典新訳文庫、2016年、108頁。


 だが悪とは間違った行為、つまり目的に反する行為のことにほかならないのだから、目的に反することを知りながら、目的に反する行為をするというのは、やはり奇妙なことに思える。誰が東にあるデパートに向かうために、進んで西に車を走らせるというのだろうか。


 アリストテレスは知識を使用しているかどうかで区別して理解しようとしたが、知識そのものに性質の違いがある可能性を見落としているようだ。

 もし自身の行為を悪いことだと知りながらやっているという人がいたとしたら、その人が知っているのはたんに「ほかの人たちがその行為を悪いことだと考えている」ということにすぎず、決してその人自身がその行為を悪だと考えているわけではない。情報や知識、経験といった判断の前提に違いがあれば、たとえ整合性の判断に誤りがなかったとしても、判断結果に違いが出てくることは十分ありうるのだ。


 みずから「そのようだ(間違っている)」と判断して得られた知識と、他者が判断した知識をそのまま受容し、「そのように(間違っていると)言われているからそうなのだろう」と判断して得られた知識では、そもそもの確信度に大きな違いがある。

 前者の知識はみずから判断したゆえに確信があり、そのためなんらかの外的な強制がかからない限りは無視することはできない。他方後者の知識はその判断を下した他者が間違っている可能性があると考える余地があるし、あるいはその知識は自分には適用されないと考えることもできるため、自分の都合に合わせて恣意的に取捨選択できる。このように、どのように行為していこうとするかというみずからの意志を構築する際、人はその前提となった知識の由来に大きく影響される。


『ニコマコス倫理学』邦訳者の渡辺邦夫による解説で用いられている例(*7)を使わせてもらうと、先ほどまで甘いものは自分の身体に悪いから食べてはいけないと知っていたのに、いざ砂糖菓子を目の前にしたらついつい食べてしまったというような場合に「少しぐらいなら大丈夫だろう」と思って食べるのは、本当にそのことで身体を悪くするとは思っていなかった、つまり「甘いものは自分の身体に悪いから食べてはいけない」という(医師の助言や一般論としての)知識を疑ったゆえの行為だといえる。

 もしこの知識が実際に身体を悪くした実体験にもとづいて得た知識であれば、たんに医師に注意を受けたことで得ただけの知識などよりも、行動への影響はずっと大きくなるはずだ。「痛い目を見なければわからない」という言葉は、みずからの経験から自分で判断した知識であれば、誰も逆らうことができないという経験則から生じたものだと思われる。

 カントが指摘するように「われわれがみずから義務に違反する行為をするたびに自己自身に注意すれば次のことがみとめられる、すなわちわれわれはみずからの格率が普遍的自然法則となることを実際に意志しているのではなく――そういうことは不可能だから――、むしろみずからの格率の反対が普遍的法則であるとみとめているのであるが、ただわれわれはみずからの傾向に従って、自分にだけは[あるいはこんどだけは]例外を認めるという、勝手なことを考えているのである」(*8)

 この場合は特定の知識(法則)が、自分にだけは適用されないものと考えられている。それはその法則がみずからの判断でつくり出されたものではないために、生じうる事態なのだ。


*7 アリストテレス『ニコマコス倫理学(下)』476頁(訳者解説)。

*8 カント「人倫の形而上学の基礎づけ」290~291頁。[]内および強調はカントによる。


 したがってソクラテスはみずから正しいと判断した知識のみを知識と考え、アリストテレスは他者が正しさを判断した知識も含めて考えていたとすると、両者の認識の食い違いがどこから生じたのかが理解できる。

 広い道徳範囲に反しているという客観的な知識は、狭い道徳範囲では矛盾がないため、主観的目的と結びついた知識にならない場合がある。みずから悪と判断した行為をする人はいないが、他者の判断にしたがうよりはみずからの目先の利益や欲求を優先し、他者に悪と思われてでもそうした行為で利益を得ようとするのが正しい(善である)と考える人は現実に存在しうるのだ。

 みずからの実際の経験から学習するのと、根拠を度外視して他者から教えられた知識とでは、行動に与える影響は決して同じではない。第一〇章で考察する推論の仕方を前提にすると、直観から反省的判断によって取得された法則と、他者の判断した法則を形式的に取得するかの違いということになる。後者の認識をカントは歴史的な認識(所与からの認識)と呼び、合理的な認識から区別した(*9)。


*9 カント『純粋理性批判』(熊野訳)794頁(A835f.,B863f.)。

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