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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第二章 道徳の範囲を意味づける
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共感の範囲

 道徳範囲は属人的に固定されているとは限らず、対象が同じ人であっても、問題領域ごとに道徳範囲に含めたり、含めなかったりということがありうる。


 たとえば、学歴差別のことを考えてみる。

 差別をする人は被差別者を道徳の範囲に含めていないため、差別することを目的に反することであるとは考えていない。そのため、とある企業の四大卒の採用担当者が、学歴だけを理由に高卒の志望者を面接で落としたとしても、彼はまったく悪いことだとは思わない。

 ところが担当者の帰宅後、その志望者が面接の帰りに通り魔に襲われて命を落としたというニュースを、テレビ報道で知ったとしよう。もしかするとその採用担当者は、被害者に同情し、犯人に激しい憤りを覚えるかもしれない。

 学歴差別をしていたにもかかわらず、その人が殺人被害者になったとたんに同情しはじめる。この場合、企業の採用活動では道徳範囲に含めていなかった(採用希望者との間での、適正と関係のない事柄で就職活動に失敗し、その面接のために準備をしてきた労力と時間が無駄になるリスクを別段気にもとめていなかった)人を、今度は道徳範囲に含めている(理不尽に殺されるリスクを気にしている)ことになる。


 この違いはなんだろうか。

 就職活動の失敗と殺されることでは、リスクの大きさがまるで異なると考える人もいるだろう。あるいは、ともに働くことになるかもしれない人を選ぶことと、自分に無関係な誰かの生き死にの話なのだから、自身に影響があるかないかの違いだという人もいるかもしれない。

 ここでわいてくる疑問がある。その人のことを道徳範囲に含めている状態を標準として、リスクが小さいか自身に影響を及ぼしてくる可能性のある採用活動のときにだけ、道徳範囲から外したのだろうか。それとも道徳範囲からその人を外している状態が標準であって、リスクが大きいか自身の日常に無関係であるという理由で、道徳範囲を一時的に拡大したのだろうか。


 おそらくこの面接官は、そのリスクが自分にも降りかかる可能性があるか否かによって、判断している(その出来事自体が自身に影響あるかどうかではない)。

 大卒の採用担当者が高卒だからといった理由で不利な扱いを受ける可能性は、事実と違って高卒に間違われるなどかなり特殊な事情がない限りは、これからもほとんどないだろう。だが外出中に見知らぬ人間に殺される可能性は、現に殺された人がいる以上、自分にだって十分ある。

 もしこの面接官が高卒から這い上がって出世してきた人であったなら、志望者が高卒の人であったとしても、丁寧に適正を見ようとしたかもしれない。道徳の範囲をどう設定するかには、自身の経験や立場が大きく影響する。


 このように他者に降りかかったリスクを自分のもののように感じる能力を、「共感」という。神経科学者・哲学者のジョシュア・グリーンによると、他者が痛みを経験しているのを目撃すると、目撃している人自身が痛みを経験するときに働くのと同じ情動と関係した神経回路が働く(*1)。

 人間には、他者の傷みを、自分のことのように感じることのできる能力が備わっている。したがって考えられるのは、普段は自身とかかわりのない人には無関心であるけれども、他者リスクを自身にも降りかかりうると評価した結果として、道徳範囲が一時的に拡大したというものだろう。


*1 ジョシュア・グリーン著、竹田円訳『モラル・トライブズ上・下』岩波書店、2015年[2013年]、49頁。


 道徳範囲とはその社会上のリスクの減少を志向する範囲のことをいうのだから、他者のリスクを自分のものと同等に感じるという共感の定義と重なる。なぜなら他者のリスクを自分のものと同じように感じるなら、当然そのリスクを取り除きたいと思うだろうからだ。

 したがって道徳範囲とは、共感の範囲でもある。もう少し正確に言うなら、道徳の対象とする人を範囲とする広さと、共感の対象とする人の範囲の広さは一致する。

 共感するとは、その人を道徳の対象にしているということ、その人を含めた社会の安全を望んでいるということにほかならない。なぜ他者の安全までも、自身の安全と同じように望むのか。それは、他者に降りかかるリスクは、もしかすると自分や自分と同様に大切にしている人にも、同じように降りかかってくるかもしれないからだ。


 ところで共感は同じ感情になること、つまり感情の共有として説明されることもあるが、今説明したように、ここではその意味で用いられていない。

 ただし共感した結果、つまり他者のリスクを自分のもののように感じた結果として、同じ感情になることはありうる。

 反対に、違う感情になることもあるだろう。たとえば傷つき悲しんでいる友人がいたとして、同じように自分も悲しい気持ちになるのも、その友人を傷つけた人間に怒りを感じ、憎しみを覚えるのも、どちらも共感した結果に違いない。


 この言葉は多義的な言葉なので、一度整理しておいた方がいいだろう。

 これまで何度か注意を促しているように、人はしばしば、異なる概念を混同してしまう。先ほど定義した意味以外にも、共感という言葉をめぐっては「人の気持ちを考えること」や「同情」「他者との感情の共有」といった概念群に原因と結果の関係にもとづく混同が起きていて、それらがすべて共感という言葉で表されることが多い。


「人の気持ちを考えること」は他者に共感するための技術であって、それ自体は「共感」ではない。「共感」は前述したように、他者のリスクを自分のリスクと同等に評価することなので、他者にとってなにがリスクになるのかを知るためには、他者の気持ちや意志を推論することが必要になる。

 また「同情」は情動の一種であるので、なんらかの行為を人に促すものだと考えられる。「同情する」という言い方はするが、それ自体が意志を原因とした行為というよりは、同情した結果として、なんらかの行為をすると考えた方が自然だろう(意志→同情ではなく、同情→意志→行為)。つまり人に共感を促すためにわき上がるのが「同情」であり、これは共感の原因となる。

 他者のリスクを自分のリスクと同等に評価(共感)することで、そうしたリスクを取り除こうとして怒りの情動がわき上がったり、その人の痛みを和らげるため、ともに悲しむことで自分が味方であることを伝えようとするなど、なんらかの感情を覚える。その一例として、悲しんでいる人を見て同様に悲しい気持ちになるといった現象が起こる。


 したがってこれらの因果関係を順に追っていくと、「人の気持ちを考える」→「同情」→「共感」→「なんらかの結果としての感情」→「把握したリスクを取り除くための行動」となるため、共感の<原因>である「人の気持ちを考えること」や「同情」、共感の<結果>である「他者と同じ感情を抱くこと」が「共感」と呼ばれるようになったのだと思われる。また「他者と同じ感情を抱くこと」の<類似>により、「他者と同じ考えをもつこと」が「共感」と呼ばれることもある。

 もちろんこうした共感の因果系列には必ずしも従う必要はなく、たとえば同情することなく(理性によって)共感したり、同じ感情を抱くことなしに他者のリスクを取り除く行動に移ることなどは、十分に可能だろう。逆に人の気持ちを考えたにもかかわらず、その人に共感しないということもありうる(嫌がらせをする場合など)。これについては、次章で説明するような因果関係の性質が、理解の助けになるだろう。

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