道徳の範囲
図2-2を見てほしい。
ここでは、AからFまでの六人だけが存在する世界を考える。
客観的目的は、世界に一つだけしかないとは限らない。実際この世界には、ABCが共有している客観的目的(S1)と、DEFが共有している客観的目的(S2)がある(客観的目的は社会の目的のことなので、Socialの頭文字を取ってSで表すことにする)。
つまりABCの3人はABCの3人だけの安全を考え、DEFの3人になにかしらの害があろうと、一切気にかけないことを表している。同様に、DEFの3人も自分たちさえよければそれでよく、ABCの3人に降りかかるリスクなどどうでもいいと思っている。
国家間の対立のようなものを考えてもらえれば、状況はわかりやすいだろう。外国の紛争や貧困の問題を普段から気にかけているような人は、そう多くはない。それが敵対している国家の国民に関するものであれば、なおさらだろう。結局のところ、外国の問題よりも自国の問題の方がみずからへの影響が大きいのだから、関心の度合いに差が出てくるのは自然なことだ。
二つの社会の間にある双方向矢印の上に、バツ印をつけている。これはなにかというと、お互いがお互いにリスク化していることを表している。つまりは、同じ目的を共有していない人が存在しているということ自体が、すでにリスクなのだ。
そういえるためには必ずしも、積極的に相手側に害意を持っていることは要しない。カントの自然状態に関する表現を借りれば「つねに敵対行為が発生しているというわけではないとしても、敵対行為の脅威がつねに存在している状態」(*1)であり「剥き出しの自然状態にある個人あるいは民族は、〈わたし〉からこの[安全の]保証を奪ってしまうのであり、たんに隣にいるという状態だけによって、すでに〈わたし〉に危害を加えている」(*2)
*1 カント著、中山元訳「永遠平和のために――哲学的な草案」[1795年]『永遠平和のために/啓蒙とは何か 他3編』光文社古典新訳文庫、2006年、162頁(以降、「永遠平和のために」と略記)。
*2 同、163頁。[]内は引用者による補足。
こうした脅威を減らすには、客観的目的の共有範囲を拡げるしかない。
AからFの全員で同じ目的を共有することができたなら、社会上のリスクを減らすことができる。そして社会上のリスクが減ることは客観的目的が促進されたことを意味し、その分主観的目的のための手段である社会の価値を高める。つまり客観的目的の共有範囲が広ければ広いほど、社会の価値は高まることになる。
こうした客観的目的の共有が可能な範囲のことを「道徳範囲」と呼ぶことにしよう。
この概念は名前の通り、どの範囲の人びとにとっての道徳が志向されているかを表している。あくまで共有が<可能な>範囲としているのは、道徳範囲自体は個々人の中で主観的に設定されるものでしかないからだ。つまりあなたがわたしのことを道徳範囲に含めていても、わたしもあなたのことを道徳範囲に含めているとは限らないことを意味している。
しかしもしあなたがわたしのことを道徳範囲に含めているのなら、わたしも同じようにあなたのことを道徳範囲に含めたとしても、わたしに損はないし、あなたを敵に回す確率が減少する分、むしろわたしも利益を得ることになるだろう。
道徳範囲は、歴史家のウィリアム・レッキーや哲学者のピーター・シンガーがいう「道徳の輪」とほぼ同じ概念だと考えられる。ただし、道徳の輪は同じ人間の集まりと考える範囲、コミュニティの範囲が時代が進むにつれて拡がっていくという、時代による価値観の変化に注目した概念だが、道徳範囲は同時代の同じコミュニティの中でも範囲に含める人、含めない人が細かく区別されるため、人びとの日常的な行動を説明するのに使うことを意図している。とはいえ境界の可変性、恣意性を強調するためには輪という丸い形をイメージされると都合が悪いというだけなので、厳密に区別しなければならないというわけではない。
さてここで、現実世界に目を向けてみよう。
二度の世界大戦まで幾度となく悲惨な戦争を繰り返してきた西洋諸国も、今では少なくとも、西洋の国家同士での戦争が起こる気配は、まったくなくなっている。国家間関係には、強制力をともなうような法がないにもかかわらずだ。
これは民主主義が根付き、EUやNATOといった国家間で協力するような場がつくられてきたことも、無関係ではないだろう。要は、西洋諸国域内の人びとの安全という同じ目的を共有することで、人びとの道徳範囲が拡大し、争いの種が減少することになったのだと思われる。対立構造は、目的の共有で解消できる。
その一方で、そうした国々でも、国内に目を向ければ、ある行為を禁止して違反者には刑罰を科すような法律があるにもかかわらず、犯罪行為をする者があとを絶たないという現実がある。ここから、真に平和状態を保証するものは、法律のような外的強制力ではなく、同じ目的を共有するというそれぞれの内面的な意志しかないことがわかる。国内の人間であっても、社会治安をよくするという目的を少しでも気にかける人であったなら、差し迫った特別な事情がない限りは、罰則を伴う法律を意識しようとしなかろうと、むやみに犯罪行為をしたりはしないだろう。
***
次に、図2-3を見てほしい。
GからLの6人だけがいる世界で、それぞれが客観的目的S3かS4のどちらかを志向しているが、図2-2とは共有の仕方が異なっている。
GHIは自分たち3人だけが安全な社会であればそれでいいと思っているが、JKLの3人はGからLの6人全員にとって安全な社会を望んでいる。ここでもやはり、目的を共有していない人どうしがリスク化している。
図2-2の形と図2-3の形を区別して、前者を「分離型」、後者を「内部社会型」と呼ぶことにしよう。分離型が異なる国家同士のように別々の社会をつくって完全に対立していたのに対して、内部社会型は一つの社会の中に別の社会ができたような形になっている。
内部社会型の例を挙げるなら、学校が校内で起きたいじめ問題を隠蔽するような場合を考えてもらえればいいだろう。
この場合、学校の運営主体、教員や教育委員会の保身ばかりを優先し、被害者も含めたその学校に現に通っている、あるいは将来的に新たに通うことになるであろう子どもたちの安全や、保護者の不安には配慮されていない。つまり学校側の行為はS3には適っているものの、S4には反しているということになる。
これは、内部社会の外にいる人間、JKLのリスクが高まる行為になる。囚人のジレンマの問題で、一般的に不道徳とされる行為が道徳的とされたのとまったく同じ構図になっており、問題の隠蔽はGHIにとっては道徳的だが、JKLにとっては不道徳な対応となる。
ではこの場合、GHIにとってはなんのリスクもないわけだから、彼らにとってそれが正しい対応になるのだろうか。
そんなことはない。GHIの行為はJKLにとってはまずいものなのだから、後者の3人は当然、前者の3人を非難するだろう。非難や罰は、道徳範囲の拡大を促すため、人為的にリスクをつくり出す行為とみなせる。そうすることで、目的を共有しない限りは双方とも損をする形となるわけだから、GHIにとっても利益を最大化するには、道徳範囲を拡大する以外の方法がなくなる。
そうしない限り、JKLの3人をつねに敵に回しているようなものだし、罰あり公共財ゲームと呼ばれる実験において、人は非協力的な者に対してなら、自分が多少の損をしてでも罰を与えようとする傾向があるということもたしかめられていて(*3)、むやみに敵をつくることは社会上の、そして自身の生存上のリスクを高めることがわかる。
*3 『進化と人間行動 第2版』213~214頁。




