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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第二章 道徳の範囲を意味づける
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必要な普遍性とはどのようなものか

 日本で道徳に関する議論がおこなわれるとき、道徳の普遍性について気にする人はあまりいない。それに対して西洋の思想家には、普遍性に強いこだわりをもっている人が多い。おそらく、ヨーロッパではさまざまな民族が入り乱れて価値観の違いによる争いが絶えなかったために、価値観の違いにとらわれない普遍的な道徳が求められたという経緯に、その一因があるのだろう。


 その代表格の一人として、18世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントがいる。カントは「信用されたければ、嘘をついてはいけない」のような条件付きの道徳を仮言命法と呼んで否定し、たんに「嘘をついてはいけない」というような無条件的に言い切る定言命法を道徳法則として採用すべきだと主張した。

 なぜなら前者の場合、嘘をつかないことではなく、人から信用されることが目的になっていると考えられるからだ。そういった下心から来る道徳は、安定しない。別に人から信用されなくてもいいという人なら、嘘をついても問題ないということになりかねないからだ。道徳命令をいつでも有効なものにするには、利己的な動機を捨て、正しいことを無条件に、それが正しいというだけの理由でおこなうようにしなければならない。


 カントは定言命法を、根本方式と3つの方式、合わせて4つの仕方で表現している。このうち根本方式「汝の格率[行動原理]が普遍的法則となることを汝が同時にその格率によって意志しうる場合にのみ、その格率に従って行為せよ」と第一方式(自然法則の方式)「汝の行為の格率を汝の意志によって普遍的自然法則とならしめようとするかのように行為せよ」(*1)(と、あとで紹介する第三方式)において、普遍性が求められている。


*1 カント「人倫の形而上学の基礎づけ」(野田訳)286頁。[]内は引用者による言い換え。


 カントが求める普遍性の水準は、とても厳しい。彼が言うには、自宅でかくまっている友人を殺しに来た人間に対してでさえ、友人はここにはいないと嘘をつくことも許されない。場合によっては嘘をついてもいいとするのは、道徳法則に例外をつくることになるからだ(*2)。

あるときには嘘をつくと非難されるのに、別のあるときには嘘をついてもいいとするのは、どうにも普遍性に欠ける。すると「法の源泉を使用不可能とすることによって人間性一般に害を与える」(*3)ということらしい。


*2 カント著、谷田信一訳「人間愛から嘘をつく権利と称されるものについて」[1797年]坂部恵、有福孝岳、牧野英二編『カント全集13 批判期論集』岩波書店、2002年、251~260頁。

*3 同、255頁。


 これはカントの形式主義の悪いところが出ている部分であるため、カント批判ではやり玉に挙げられやすいところではある。

 なぜ彼は、こんなにも普遍性にこだわるのだろうか。カントは普遍的な法則に合致するように行為せよという要求を、「意志が決して自己矛盾におちいらないための唯一の条件」だとしている(*4)。彼が恐れているのは、道徳行為に一貫性がなくなってしまうことだ。


*4 カント「人倫の形而上学の基礎づけ」(野田訳)311頁。


 この点に関しては、目的、特に客観的目的との関係を使うことで解決できる。

 普段、たとえば人から金を借りるときに、返すつもりがないのに必ず返すと嘘をつくのが非難の対象になるのは、そうなれば人との約束が信用できない危険なものとなって、複数人で協力し合うことも困難になり、社会上、つまり人間関係上のリスクが高まると考えられるからだ。

 しかし友人を殺しに来た殺人者に嘘をついたとしても、(逆恨みの可能性は別として)リスクが高まるわけではない。むしろそうしたリスクが減少することさえ期待できる。誰かに殺されるリスクが友人に降りかかることはあきらかに社会上のリスクであり、そうしたリスクを防ぐのは、客観的目的に適う行為といえる。

 嘘をつくという形式だけで見るなら、あるときには嘘をついてもいいが、別のあるときには嘘をつくと非難されるというのは、一貫性を欠いているように見えるかもしれない。だが目的が一貫しているのであれば各々の行為に矛盾はなく、ともに同一の基準に従った判断であり、ゆえに一貫した態度を保っているといっていい。

 善悪は手段そのものではなく、目的との関係で決まる。他者をだまして得をするために嘘をつくのと、罪のない人を助けるために嘘をつくのでは、その行為のもつ意味はまったく異なるのだ。



 このケースと同じように、形式的に考えているために矛盾しているように見えるのが「無制限の寛容は寛容の消滅へ行き着かざるをえない」という「寛容のパラドックス」の問題だ(*5)。

 不寛容な者にまで寛容な社会は、そのうち不寛容がはびこるようになり、最終的にその寛容さが失われる。だから不寛容な者にまで寛容である必要はないということになるのだが、その次には、不寛容に不寛容になればそれは寛容な態度とはいえず、そのような不寛容な社会を寛容な社会と呼ぶのは、自己矛盾ではないかという問題が生じる。

 だがこれも、人殺しへの嘘と同様、なにを目的としているかで寛容の意味が変わってくるということを理解することで、容易に解決できる。


*5 以下の注釈で定義された問題。カール・R・ポパー著、内田詔夫・小河原誠訳『開かれた社会とその敵 第一部 プラトンの呪文』未來社、1980年[1950年]、289頁。


 そもそも、なぜ寛容が一般的に善だと考えられているのだろうか。

 それは社会が多様な価値観を受け入れることで、少数派の人が社会から一方的な価値観を押しつけられて窮屈な思いをしたり、価値観の衝突による争いが起こるのを防止することにつながるからだと考えられる。そうすることによって、無意味に傷つく人が減り、社会の価値が高まることになる。

 だが不寛容な人の存在は、こうした目的に真っ向から反抗することになりやすい。したがって客観的目的に適う形であれば、不寛容に不寛容であることは許される。人を傷つけないために寛容になるのも、人を傷つける不寛容に不寛容になるのも、どちらも客観的目的を促進するためにおこなわれるからこそ、客観的に正しい態度となる。


 結局のところ、嘘も寛容も、たんなる手段にすぎない。

 手段そのものには、善も悪もない。手段だけに注目して、あるときには善くてあるときに悪いのは自己矛盾だと非難するのは、たとえば包丁で食材の野菜を切ることは許されるのに、気に入らない人間を刺し殺すのに使うのが許されないのは矛盾していると主張するようなものだろう。手段とは結局、たんなる道具でしかない。どんな道具にも、正しい使い方と間違った使い方がある。


 とはいえ、だからといって普遍性がなくてもいいというわけではない。ただしここでいう普遍性とは、いつでもどこでもどんな場合でもというタイプの普遍性ではなく、どこの誰であってもという普遍性のことだ。

 なにかの必要性がどこにあるのかを考えたければ、それがなければどうなるのかを考えてみればいい。次節では、普遍性がなければどのような問題が発生するのかを考えていこう。

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