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道徳の意味づけ  作者: 弾泥
第一章 目的を意味づける
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「べき」について

 すでに述べたように「~べきである」とは、その行為が目的の達成に役立つことを主張する言葉だが、その目的が客観的目的である場合、つまり道徳的な意味をもつ場合には、ただその行為を勧めるだけではなく、なんらかの強制力を人に感じさせる言葉になる。


 哲学者のエリザベス・アンスコムが主張するところによると、道徳的な意味での「べき」(ought)や「義務」という概念は、キリスト教の伝統からきた法や審判を前提にしたものであり、神の法という今やほとんど絶滅してしまった概念了解が、特別な強調と感覚をともなって用いられる言葉として、その根元を失いながらも残存しているものなのだという。

 そのような道徳的な意味の概念はもはや空虚で有害なものになっているとして、心理的に可能であるなら放棄すべきだと彼女は言う(*1)。曰く「刑法や刑事裁判所が廃止され、忘れ去られたときに『刑法上の』という概念だけが残存しているようなものである」(*2)


*1 G・E・M・アンスコム著、生野剛志訳「現代道徳哲学」[1958年]、大庭健編、古田徹也監訳『現代倫理学基本論文集Ⅲ 規範倫理学篇②』勁草書房、2021年、141~181頁。

*2 同、152頁。


 とはいえもちろん日本語の「べき」という言葉には、そのような意味合いは含まれていない。

 古文の「べし」という助動詞の意味には「推量」「意志」「可能」「適当・勧誘」「当然・義務」「予定」「命令」といったものがある。

 目的に対して役立つというのは、その手段を使った場合には、その目標が示しているまだ実現されていない状態を未来において実現できるということ、すなわち(目標状態の)実現可能性を示していると解釈することもできる(やろうとしても不可能なことをするべきだと主張する人がいたら、どう思うだろうか)。そこから未来についての思考を表す「推量」(きっと~だろう)と、可能性を示す「可能」(~できる)が「べき」の意味に含まれることが理解できる。

 また主観的目的に役立つ行為ならばそうしよう(「予定」)と思うのが「当然」(~するはずだ)だから、そこから「意志」(~しよう、~するつもりだ)の意味が付加されることになるだろう。


 ここまでは考慮されるのが一人(自分)だけでも成立するが、ここからは他者の存在が前提される。つまり道徳的な意味合いを帯びてくる。

 まず他者のなんらかの行為が目的に役立つなら、そうするのが「適当」(~するのがよい)と主張して、そうするように「勧誘」するだろう。

 しかしその勧めを、言われた人間が素直に聞くとは限らない。それが主観的目的に役立つだけなら当人の好きにさせておけばいいが、客観的目的のためであれば本人以外にも影響が出てくるため、そういうわけにもいかなくなる。

 そのためそうすることをその人の「義務」(~しなければならない)として、なんらかの圧力をかけ、場合によっては直接「命令」(~せよ)することになる。これらの意味をもった言葉による強制感とは、他者がそう望んでいることを認識することから来る、一種の同調圧力のようなものと考えられる。


 アンスコムの指摘は少なくとも、日本語の「べき」や「義務」には当てはまらない。神を前提しなくとも、社会(他者)によって義務づけられるということもあるだろう。

 そのような意味で理解していれば、それらの概念は引き続き、道徳的な意味でも利用可能と思われる。もともと「法」は共同体の決まり事を形にしたもので、それが神の法という形で宗教に転用されたものだろうから、道徳的な「べき」や「義務」という概念を、神の専売特許と考えるわけにはいかない。

 ただ、他者を動機づける際に神の威光を利用したために、本来とは異なる特別な感覚が付与されたということはありうる。


 さて「べき」という言葉に結びつけられたさまざまな意味を、さほど無理のない形ですべて関係づけることができた。もし日本語というものが経験してきた長い時間をさかのぼっていくことができるなら、これらの意味は決して同時発生的にいきなり生じたわけではなく、それぞれが異なるタイミングで「べき」という言葉に結びつけられたことがわかるに違いない。

 序文で注意を促したように、人はしばしばなにかしらの関係で結びつけられた異なる概念を混同したり、取り違えるという誤りを犯す。それはつくられうる概念の数に比べて、言葉の数があまりにも少ないことも一因となっている(ほかにも認知経済性、つまり認知資源を節約しようとする傾向などもかかわっている可能性がある)。

 異なる概念であるにもかかわらず、同じ言葉に結びつけられ、代替される。そうするとたとえ同じ言葉を使っていたとしても、人によって、あるいは同じ人でも異なる時点によって、異なる概念がその語から再生されることになる。その危険性は時間が経てば経つほど、同じ言葉に結びつけられる概念の数が増加するために高くなる。

 このことが人びとの理解にずれを生じさせ、誤謬や詭弁をわかりづらくさせ、意見の一致を阻む要因となる。本稿の議論を追う際にも、十分に注意されたい。


 ところでさきほど、客観的目的が客観的であるのは、他者と同一の目的を共有しているからではなく、共有することが可能だからと説明した。

「共有が可能」とはどういう意味だろうか。とりあえず今は、他者がその目的を共有しても、その人(他者)に致命的な問題が発生しないということだと理解してほしい。

 目的を共有することが可能であれば、他者に対して、その目的の正当性を主張し、目的を共有するよう正当に要求できる。共有することが不可能な人に対して、共有不可能な目的の共有を求めたとしてもしかたがない。そのため共有が可能かどうかは、非常に重要な問題といえる。


 これは言い換えると、客観的目的を共有できない場合があるということでもある。

 目的が共有できないと、どのような問題が発生するのだろうか。共有することを可能にするもの、すなわち目的の正当性の条件とはなんだろうか。

 そうした問題について、次章で考察していくことにしよう。

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