楽屋にて 2
パイプイスに座ったまま名刺の余白に何か書きこんでいた海東が、ようやく書き終えて京也に名刺を差しだす。
着替えの途中だったが、京也は手をのばして名刺を受けとった。
ボールペンで書かれたこまかい文字で、きょうの日付と「椀間市民音楽ホール楽屋にて」と書かれている。
「警察官の名刺はいろいろ悪用されるおそれあるから、何か書くよう推奨されてんの」
海東がそう解説する。
京也は、所属と氏名と階級とを順番に目で追った。
「へえ、巡査長。無茶やってるわりに部下とかいるんですか」
「巡査長ってのは、ある程度の年齢になりゃたいがいなれんの。正確にはいちばん下っぱの巡査」
海東が答える。
京也は目を左右に泳がせた。
「……リアクションしにくいようなことを言わないでください」
「聞いたから答えたんだろ」
海東が答える。
ボールペンをモッズコートのポケットにしまいながら、「つか本題」とつづけた。
「うちの管轄で変な殺人が立てつづけに起こってんのは知ってる?」
「変な殺人の定義は知りませんけど、殺人事件が立てつづけに起こっているのは知ってます」
京也はタキシードをキャリーのスーツ収納スペースに入れ、ハンガーロックをした。
「そそそ。被害者はみんな自宅、学校、職場いずれも鏡のまえで血まみれで倒れてる。加害者の指紋、髪の毛、血液、唾液等々物的証拠はゴロゴロ見つかってんだが、なぜか足痕跡がいまだ見つからない」
「足痕跡」
京也は聞き返した。
「下足痕ともいう。ドラマなんかでいう、ほらゲソ痕ってやつ」
「ああ、ゲソ痕……」
足跡か。そう京也は認識した。
「早く捕まえてください。治安を守るのがお仕事でしょう?」
話をしながら、普段着のパーカーと中着のTシャツを重ねていっしょに着はじめる。
その様子を海東が目を丸くしてながめた。
「いーい腹筋してんなー。音楽以外もなんかやってんの?」
しばらくモソモソと頭とそでを通したあと、京也は自身の腹筋について言われていると気づいていそいそと服をととのえた。
「なんで腹筋の話ですか!」
「音楽家なんてタキシード着てお上品に立ってるか座ってるかってイメージしかないからよ。体鍛えてるとか思わねえじゃん」
「これだから素人は。体全体が楽器なんですから、走りこみやら腹筋運動やらアスリートなみに鍛えてますよ」
京也は早口で解説した。
「そういうもんなのか」
海東がさらに目を丸くする。
「本題に入ってくれませんか?」
京也は語気を強めた。
「ああ、そだな」
海東がそう返す。
「足痕跡がいっさい見つからないんで、どうやって被害者に近づいたのか、どういったルートで逃走したか、んで凶器も。まるで分からん」
海東がつづきを語る。
ここまでの話が、自身への協力要請にどうつながるんだ。
京也はデニムのパンツを履きながら眉をひそめた。
「凶器って、ご遺体にはどういった傷跡がついてるんですか。そこから見当ってつくんじゃないんですか?」
京也は問うた。
「見当はついてもじっさいに見つけなきゃ物的証拠にはならんの。何々のようなものって言うしか」
「どんなもののようなものなんですか。――捜査上の言えないこともあるかもしれないから、ムリには説明しなくてもいいですけど」
「十本の鋭利な刃物で左右から一気に切りつけられた、もしくは約二十本の鋭い刃物で上下から一気に刺された」
「犯人はクマですね」
京也はパンツのタックボタンを留めた。
「いま流行りのアーバンベアでしょう。僕のところへ来るより、猟友会の協力を要請したほうが」
京也はそう告げた。
ボストンキャリーに私物をしまい、キャリーバーをのばす。
コロコロとキャリーの車輪を転がして出入口に歩を進めた。
「じゃ」
「ちょーっと待った!」
海東が大声を上げてパイプイスから立つ。
「クマに足痕跡がないわけないだろうが!」
「ジャンプしたんじゃないですか? クマって以外と脚も速いし身軽らしいですから」
「ちっちゃい社屋のなかやら民家の洗面所やらでクマがジャンプしておそって来てジャンプして逃走すんのか!」
「そこは。僕は探偵じゃないですから」
京也はため息をついた。
「ああもう、これ見せたほうが早え!」
海東が、雑なしぐさでモッズコートのポケットからスマホをとりだした。
二、三ほど操作して画面をこちらに向ける。
「いきなりオカルトな話ししても胡散臭がられると思ったからよ、できる限り遠回しに話してたんだけどよ」
「オカルト?」
京也は眉をひそめた。
スマホの画面には、海東と同年代ほどのスーツの男性が映っている。
防犯カメラの映像のようだ。
「俺のバディだ。いま重傷負って入院してる。これは警察署内の防犯カメラ」
海東が説明する。
画面になんのおかしなところはない。
場所は警察署の玄関口の近くだろうか。
海東のバディは、鏡の近くでほかの署員と話をしたあとスッと歩を進めた。
鏡のまえまで来たとき。
鏡から白くほそい腕がにゅるりとあらわれて、手を鉤状にかまえた。
つぎの瞬間、十本の長くするどい爪が海東のバディに切りかかる。
海東のバディは本能的になにかを感じたのか一瞬さきにうしろに引いたが、それでもするどい爪を受けて血まみれで崩れ落ちた。
周辺の署員が駆けつける。
騒ぎのなか、白い腕はにゅるにゅると鏡のなかに消えた。
京也は無言で画面を見つめた。
「……何ですかこれ。AI?」
「警察でんなもんつくって誰得だ」
海東が顔をしかめる。
「これ以降、俺も鏡のちかくに行くと狙われるらしくてよ。身だしなみも整えらんねえ状態なんだが」
海東がスマホをポケットにしまう。
それでよれよれのモッズコートに糊付けもしていないシャツと言いたいんだろうか。
わりと元からこうなんじゃないかなと京也は思った。
「鏡みたいに映るもんとか、ちかくにいる人の手鏡なんかもヤベェみたいだからあんま近づけねえんだけどよ」
海東がため息をつく。
「――ところが、あんたこのまえS山公園でお歌の練習してたろ。そこ通りかかったときだけ、鏡に出かかった手が引っこんで消えたんだよな」
京也は無言で応じた。
キャリーの車輪を転がして出入口に歩を進める。
そのまま楽屋のドアを開けた。




