第一部第一章第九幕 天の旅路に抱く覚悟
乳白色の雲海を押し退けながら、神代の巨船『天磐舟』は音もなく虚空を滑っていく。
吹き抜ける星風を全身に浴びながら、甲板の縁から身を乗り出した村正は、少年のように目を輝かせていた。
「うわぁ……スゲェ、マジで空飛んでるよ!」
眼下に広がる途方もない絶景にすっかりあてられたのか、村正は船首に立ち、芝居がかった手つきで天を仰いだ。
「――『天孫降臨』。我、この地に降り立ち、あまねく世界を治めよう……!」
「ふはははっ! ならば『ゼウスの血を引く俺』も、気高き友と共にこの天を治めよう……!」
村正が始めたノリに、ギリシャの大英雄が完璧なポージングと圧倒的な声量で乗っかる。出陣前の悲壮感など微塵も感じさせない、あまりにも騒がしく、そして間の抜けた光景だった。
「…………はぁ」
その後ろ姿を眺めていた武の口から、今日何度目か分からない深い溜息が漏れ出る。
すると、いつの間にか隣に並び立っていたリーが、呆れ半分、諦め半分の冷ややかな声を落とした。
「お互い、『変わり者』の友人がいると苦労するな」
武は隣の剣士を一瞥し、そして再び船首でポーズを決める相棒へと視線を戻した。
その涼やかな双眸には、呆れの中にも確かな温もりが宿っている。
「確かに、振り回されて苦労することは多い。……だが、あれはアイツなりの『気遣い』でもあるんだ。死地へ向かう重圧で、俺たちが押し潰されないようにな」
死の恐怖を誰よりも知っているからこそ、あえて道化を演じて空気を和らげる。それが村正という人間の不器用な優しさなのだと、武は痛いほど理解していた。
「……深い信頼を寄せているのだな」
リーが感心したように目を細める。
「もちろん、戦友としての信頼もある。だが……俺はかつて、アイツに心を救われたんだ。だからこそ、今度は俺が『盾』となってアイツを支え抜くと、そう決めている」
己の手を強く握り締めながら、武は迷いのない声で断言した。
その揺るぎない覚悟の響きに、常に冷徹なリーの口元が、フッと柔らかく綻ぶ。
「良い眼だ。……その気高き志、いかなる絶望の前でも決して捨てるでないぞ」
若き盾への餞のような言葉を残し、リーはゆっくりと踵を返した。
そして、船の舵を取るように静かに佇む白装束の背中へと、鋭い視線を突き刺す。
「――ニギハヤヒ」
「なんですか?」
呼ばれた聖都の指導者は、前を向いたまま穏やかな声で応じた。
「おまえ、一体何のつもりだ?」
リーの低い声には、先ほどまでの穏やかさはなく、明確な焦燥と咎めるような響きが混じっていた。
「お前自身、よく分かっているはずだ。お前にとって、この規模の『神の力』を行使することが、己の身に何を意味するのかを――」
これだけの巨大な神造物を顕現させ、維持し続けること。それが彼の魂と命をどれほど削り取る行為なのか、同じ神の座を預かるリーには痛いほど察しがついていた。
しかし、咎められたニギハヤヒは、微かに肩を揺らして静かに微笑むだけだった。
「力というものは、使うためにこそ与えられたもの。これほどの『使い所』があるというのに、今使わずして、一体いつ使うと言うのですか?」
「だが……ッ!」
さらに踏み込もうとしたリーの言葉を、ニギハヤヒは振り返ることなく、柔らかな、しかし絶対的な拒絶を含んだ声で遮った。
「大丈夫ですよ、リー」
星の海を見つめるニギハヤヒの横顔には、すべての運命を悟りきったような、酷く静かで、透き通るような諦念が浮かんでいた。
「――まだ、『その時』ではありませんから」
リーは奥歯を強く噛み締め、それ以上の反論を喉の奥へと飲み込んだ。
星の海を渡る風の音だけが、二人の間に流れる重苦しい沈黙を撫でていく。
しかし、その静寂を縫うように、今度はニギハヤヒの方から静かに口を開いた。
「そういうあなたこそ……どうなのですか?」
「……何?」
背を向けたままのニギハヤヒが、肩越しにちらりと視線を流す。その透き通るような眼差しは、リーの背に負われた武器――凶星のような禍々しき気配を放つ一本の『槍』を的確に射抜いていた。
「その狂気を孕んだ槍が、いずれ刃を翻し……あなた自身の心臓を貫くことになるとは、思わないのですか?」
ニギハヤヒからの痛烈な指摘を受けてなお、リーの表情に揺らぎは生じなかった。彼は鼻で短く笑い、己の半身とも言える凶器を背負ったまま、傲然と言い放つ。
「己が握る武器の切っ先を恐れて、この死地で『勇士』などと名乗れるとでも思っているのか?」
氷のように冷たく、一切の迷いがない声。
「所詮は、過去の遺物に過ぎない予言の戯言だ。俺の命も、この槍の切っ先も、俺自身の意志でコントロールしてみせる――ッ!」
「……ええ。本当に、その通りですね」
リーの力強い宣言に被せるように、ニギハヤヒがふふっと、ひどく満足げな笑い声をこぼした。
その瞬間、リーはハッと息を呑んだ。ニギハヤヒの横顔に浮かんでいたのは、聖都の指導者としての顔ではなく、論戦で相手を完全に手玉に取った『策士』の、どこか悪戯っぽい笑みだったのだ。
『己の破滅の予言を無視して力を行使するあなたに、私の力をとやかく言う資格があるのですか?』
言葉には出さずとも、その微笑みにはあまりにも鮮やかな「意趣返し」が込められていた。自らを棚に上げて説教をしていたという矛盾を完璧に突かれ、リーの端正な顔が屈辱と焦燥で歪む。
「きっ……貴様……!」
常に冷静沈着な勇士が、完全に一本取られ、珍しく感情を露わにして声を荒げた。
「ならば」
抗議の声を無視するように、ニギハヤヒは再び悠然と前を向き、白装束を夜風にたなびかせた。その背中は、どんな嵐にも決して折れることのない大樹のような威厳に満ちている。
「私も、私の選んだ道を進ませてもらうまでですよ」
自らの命を削る理不尽すらも、すべて承知の上。
互いに破滅の運命を抱えながら、それでも退けないという不器用な信念のぶつかり合いは、ニギハヤヒの鮮やかなチェックメイトによって静かに幕を下ろした。
それからしばらくの間、天磐舟は音もなく、ただ滑るように星の海を進んでいった。
だが、その荘厳で平穏な空の旅は、ある不可視の『境界線』を越えた瞬間に唐突な終わりを告げた。
白銀に輝いていた雲海が、まるで猛毒のインクを零したかのように、どす黒い紫へと急速に濁り始める。満天の星々は分厚い瘴気のヴェールに遮られ、呼吸をするたびに肺腑が焼け焦げるような痛みが走る。鼻腔を突くのは、濃密な硫黄と腐肉が混ざり合った、死そのものを煮詰めたような悪臭だった。
「……空気が、変わったな」
武が表情を険しく引き締め、左手の盾を無意識のうちに強く握り直す。
「ああ。なんだか、肌がヒリヒリしやがる……」
村正も先ほどの軽口を完全に引っ込め、腰の得物に手をやったまま、前方へと鋭い視線を突き刺した。
やがて、渦巻く毒の雲が引き裂かれ、前方に禍々しい威容が姿を現した。
天を突くような黒曜石の尖塔。生物の巨大な骨や内臓を無理やり繋ぎ合わせたかのような、おぞましくも冒涜的な巨大城塞。それこそが、世界を滅亡の淵へと追いやった元凶――邪神テポーンの居城であった。
だが、勇士たちの視線を何よりも釘付けにしたのは、その巨大な城門の前に鎮座する『動く山』のような影だった。
ズズッ……ズズズッ……。
暗雲の奥底で、九つの長大な首が不気味に蠢く。
ぬらぬらと濡れた巨大な鱗が擦れ合う音が響き、吐き出される濃密な猛毒の吐息は、周囲の空間そのものを腐らせていく。そして、どろりとした闇の中からこちらを一斉にギロリと見据えたのは、十八の凶悪な黄金の眼球だった。
「皆様、到着いたしました。……これより先は、聖都の輝きすら届かぬ死の領域です」
ニギハヤヒが静かに天磐舟の速度を落とし、冷ややかな声で告げた。
十二の試練が一柱、九頭の不死蛇【ヒドラー】。
『――懲りずにまた来たのか? 不死身の英雄よ』
空気を震わせるのではなく、直接脳髄を撫で回すような、ねっとりとした邪悪な念話が響いた。
『此度は仲間を連れての参戦とは……その空っぽな頭に、少しは知恵を入れることを覚えたか?』
神話の恐怖がそのまま具現化したような絶望的な質量。普通の人類であれば、その強烈な毒気と悪意に当てられただけで発狂し、肉体が溶け落ちてしまうほどの威圧感を纏った声が響いた瞬間、ヘレウクレスが持っていた大棍棒の柄が、ギリィッとひび割れるほどの力で握り締められた。
「……余計なお世話だ、ドブ蛇」
ヘレウクレスが、ゴキリと太い首の骨を鳴らす。かつて単独で挑み、涙を飲んだ屈辱をようやく晴らせる喜びに、大英雄の口角は獰猛な弧を描いていた。彼の全身から立ち上る凄まじい闘気が、物理的な熱風となって周囲の瘴気を強引に弾き飛ばしていく。
「今日こそ、その無駄に多い頭を、一つ残らず叩き潰してやる……!」
そう、この甲板に立つ四人の勇士から、後ずさりする者は一人としていなかったのだ。
リーは無言のまま、背負った凶星の槍ではなく、腰に帯びた刃に静かに手を添えた。極寒の殺気が、ヒドラーの放つ熱を帯びた毒気を相殺するように研ぎ澄まされていく。
『はっはっはっ! 何度来ようと同じこと。此度こそ、貴様ら全員をこの地の養分としてくれよう!』
黄金の十八の眼球が、不気味な愉悦と底知れぬ殺意に細められる。
「村正、構えろ」
武が盾を前面に押し出し、岩のように低く重心を落とした。
「言われなくとも……!」
村正は柄を強く握り締め、極限の集中力で眼前の巨大な悪意を睨み据える。
(今度こそ、足手まといにはならない……!)
九つの鎌首が天高く持ち上がり、地獄の門がゆっくりとその口を開いた。
『さァ――死と絶望の宴を始めよう!』




