第一部 第一章 第八幕 勇士たちよ、星々の下に誓いを為せ
あの日、乳海と星の海でニギハヤヒから過酷な世界の真実を聞かされてから、数日が過ぎた。
猶予期間を過ごす村正と武は、ニギハヤヒから与えられた様々な仕事を黙々とこなしていた。
ある時は、テポーンの襲撃で崩れた市街地の修復のために、泥と汗に塗れて重いレンガを積み上げる。またある時は、聖都の屈強な戦士たちに揉まれながら、息も絶え絶えに百人組手を抜ける。過酷な肉体労働と、死を身近に感じる実戦訓練の連続だった。
その一方で、宿での生活にも僅かな変化が訪れていた。
村正と共に、不器用ながらも家事を続けていた椿の動きが日に日に上達していくと同時に――その氷のように強張っていた表情にも、目に見える『温度』が戻り始めていたのだ。
「椿の表情も……少しだが、豊かになってきたな」
食後の片付けを終えた椿の小さな背中を見やりながら、武が静かに口を開いた。
「そうだなぁ。初めはどうなることかと思ったけど……」
村正は腕を組み、ホッと安堵したように息を吐く。
「そうは言いながらも、お前は根気よく彼女に家事を教え続けた。彼女自身も、お前のその不器用な優しさに深く感謝しているだろうな」
武が微かに口角を上げて指摘すると、それに気づいた椿が、布巾を持ったままゆっくりとこちらを振り返った。
そして、村正と視線が交わると――ほんのわずかに、花が綻ぶような微笑みを浮かべた。
その花紫色の瞳の奥底には、まだ深い虚無の濁りが残っている。だが、以前の光を完全に吸い込むような闇とは違い、そこには確かに、小さな温かい『光』が宿り始めていた。
「っ……!」
真正面から向けられた無垢な笑顔に、村正は居心地が悪そうにバッと顔を逸らし、赤く染まった耳を隠すようにガシガシと頭を掻きむしった。
「そ、それより! 俺たちのいる元の世界に戻れるかどうか、気にならないか!?」
照れ隠しのあまり、村正はやけに大きな声で強引に話題を切り替えた。
「……俺も、そのことについてはずっと考えていた」
武はあえて村正の照れを追及せず、表情を本来の理知的なものへと引き締める。
「俺たちは『本の中』のような世界に引きずり込まれた。だから当然と言えば当然なんだが……この数日間、聖都の人間から『外界』についての情報が全くと言っていいほど聞かれない」
「情報がない?」
「ああ。帰還の方法はおろか、外の概念すら曖昧だ。……最悪の場合、もしかするとこの世界への扉は『一方通行』だという可能性も考えられる」
武の重い推測に、村正の顔からスッと血の気が引いた。
もし二度と元の世界に帰れないとしたら。自分たちは永遠に、この血塗られた神話の戦いに身を投じ続けなければならないのだろうか。
その重苦しい沈黙を切り裂くように、バサバサッ! と荒々しい羽音が響いた。
見上げると、窓の外から漆黒の羽根を散らしながら、一羽の奇妙な鳥――三本足を持つ神鳥『八咫烏』が舞い込み、武の腕に一通の封書を落とした。
「…………!」
封を切った武の目が、鋭く細められる。
そこに書かれていた短い文面に目を通した彼は、盾を持つ左手にキュッと力を込め、村正を真っ直ぐに見据えた。
「村正、行くぞ」
「……召集、か?」
「ああ。ついに声がかかった」
手紙を握りしめる武の横で、村正は首の骨をゴキリと鳴らし、いまいちピンときていない様子で空を見上げた。
「で? どうやってあの『ヘブドマス』とかいう宇宙空間まで行くんだ? またあの『乳海』って温泉施設にまでわざわざ出向いて、目ぇ瞑ってチャプチャプ浸からないといけないのか?」
『――その必要はありませんよ』
不意に、鼓膜を通さず、脳髄に直接涼やかなニギハヤヒの声が響き渡った。
「うおっ!?」と村正が肩を跳ねさせた、まさにその刹那。
『シュンッ!』
猛烈なつむじ風が室内を吹き荒れた。
視界がぐにゃりと歪み、胃の腑が浮き上がるような一瞬の浮遊感。そして次に瞬きをした時、彼らの足元には見慣れた宿の床ではなく、白銀に輝く雲の海が広がっていた。
見上げれば、頭上には果てしない星空と、天を突く七つの巨大な神像。間違いなく、世界の中心たる玉座『ヘブドマス』であった。
「やぁ! 君たちなら、必ず来てくれると信じていたぞ!」
空間の移動に戸惑う二人に、岩のような巨体を揺らして満面の笑みで近づいてきたのは、大英雄ヘレウクレスだった。
そしてその傍らでは、亜麻色の尻尾を揺らす獣人の少女――ロッキルが、ふぅと小さく息を吐き出している。
「いやぁ……ほんと便利だね~。足の速い子がいると、こうやって一瞬で『運搬』ができちまうんだから」
村正が、さも感心したように口笛を吹いた。
「ああ。移動のたびに動いてくれてありがとう。心から感謝する」
武もまた、一切の嫌味のない真面目な顔で、ロッキルに向けて深く頭を下げた。
しかし、当のロッキルの顔には、感謝された喜びなど微塵もなかった。彼女の亜麻色の耳は不満げにペタンと垂れ下がり、その表情には深い絶望すら漂っている。
「ねぇ……私、もしかしてこのパーティーの中で、完全に『便利な運搬キャラ』として根づいちゃってない……?」
ロッキルは両手で顔を覆い、心底からの嘆きの声を上げた。
「私の『可憐な美少女キャラ』は!? 『謎めいた美人』の立ち位置はどこに消えちゃったわけ!? せめて私に、もっと花のある出番があれば~っ!」
「ハッハッハ! 何を言っているんだロッキル!」
嘆き悲しむ少女の繊細な乙女心など、この男には1ミリも理解できなかったらしい。
ヘレウクレスは豪快に笑いながら一歩前に出ると、一切の悪気のない、純度100パーセントの賞賛の言葉を口にしてしまった。
「ロッキル、お前のその『運び屋』としての活躍には、俺もいつも本当に助かっているぞ!」
『ピキッ』
ロッキルのこめかみで、理性の糸が致命的な音を立てて弾け飛んだ。
『ドォォォォォォンッ!!』
次の瞬間、静寂の神域に凄まじい爆音が轟いた。
ロッキルの細い脚から放たれた目にも留まらぬ重い足蹴りが、大英雄の分厚い腹部にクリーンヒットし、その巨体をまるで砲弾のように雲海の彼方へと吹き飛ばしたのだ。
「死ねッ!!」
ロッキルは牙を剥き出しにし、親の仇でも見るような憎悪の籠もった声で吠えた。
一方ヘレウクレスはというと、白銀の雲海に深くめり込んだまま、ピクピクと痙攣する巨体をどうにか起こそうと身悶えしていた。
「な、なぜだ……ロッキル……? 俺は純粋に、お前を褒めただけだというのに……」
腹を抱え、心底訳が分からないといった様子で呻く大英雄。その声には悪意など微塵も含まれておらず、ただ100パーセントの善意で口にした言葉がなぜ激怒を買ったのか、本当に理解できていないようだった。ある意味、それが一番タチが悪い。
「大英雄……お前が悪い」
先ほどから一連の惨劇を冷ややかな視線で眺めていたリーが、呆れ果てたように深いため息をついた。彼は神像の台座に腕を組んで寄りかかったまま、鋭い双眸でヘレウクレスを無慈悲に射抜く。
「お前は、その無駄にでかい筋肉の面積を増やすより先に、少しは『脳みその面積』を増やすことに専念すべきだな」
一切の容赦がない、氷の刃のような的確すぎる毒舌。物理的な足蹴りに続き、精神的な追撃まで受けたヘレウクレスは、「うぐっ……」と悲痛な声を漏らし、ガクリと再び雲の海へと沈み込んでいった。
そのあまりにも悲惨で、かつ自業自得な大惨事を少し離れた場所から眺めていた村正の額に、ツゥッと一筋の冷や汗が流れる。
「……なぁ、武」
村正は引きつった笑みを顔に貼り付けたまま、隣に立つ相棒の肩をヒジで小突いた。
「宿にいる椿もさ、このまま順調に感情が豊かになっていったら……いつか俺も、あんな風に理不尽にぶっ飛ばされたりすんのかな?」
自身の軽口の多さと、先ほどの「鼻血事件」を自覚しているのか、その声には微かな、しかし切実な怯えが混じっている。
「お前が『いらないこと』を口にすれば、間違いなくそうなるだろうな」
武は村正の方を見向きもせず、絶対不変の真理を説くように淡々と告げた。
「……肝に銘じます」
未来の己の姿を雲海に沈む大英雄に重ね合わせた村正は、今後は椿に対する発言に少しだけ気をつけるべきかもしれないと、遠い目をしながら果てしない星空を見上げるのだった。
「勇士たちよ、静粛に」
涼やかで、しかし絶対的な拒絶を許さない声が、星の海へと響き渡った。
その一言で、さっきまでの喜劇的な空気は一瞬にして霧散し、ヘブドマスは再び神聖な静寂に包まれる。ニギハヤヒは静かに歩み出ると、集まった勇士たちをその澄んだ双眸で見据えた。彼のまとう纏厳(厳か)な気配に、雲海から這い上がってきたヘレウクレスも、不満げだったロッキルも、居住まいを正さざるを得なかった。
「先日、我が手足たる八咫烏より、一通の知らせが届きました」
ニギハヤヒの細い指先が、虚空へ向けて静かに掲げられる。
「これによれば、我々が長年積み重ねてきた血と汗の努力が、ようやく身を結んだとのこと。天地を覆い尽くさんとし、世界を蝕み続けていたあの凶獣の禍々しき毒気を、ついに払うことに成功いたしました。……そして、奴が潜む居城の所在を、完全に特定いたしました」
その言葉がもたらした衝撃は、勇士たちの胸に重く沈殿した。
ついに見つけたのだ。世界を冬終期へと叩き落とし、神々を貪り喰らった元凶の、その本拠地を。
「我々が成すべきことは、もう明らかですね?」
ニギハヤヒの声の温度が、一転して鋭利な刃のように研ぎ澄まされる。
「我々は、この地に新たな生命の種を植え込むため、あの忌まわしき邪神テポーンの喉元へ刃を突き立てねばなりません。奴が奪い去った【神血の種――ゼウスの神格】をその肉体から強引に毟り取り、再びこの世界の強固な壁とすること。それこそが、我々に課せられた真の使命です」
ゼウスの神格。かつて世界を統べた全能の神の力が、未だ邪神の体内に眠っている。それを奪還するということは、すなわち、あの化け物との全面戦争を意味していた。先日、村正たちが命懸けで戦ったのがほんの「分身体」に過ぎなかったことを思えば、本体の待つ居城へ乗り込むことがどれほど無謀で、凄惨な死闘になるかは想像に難くない。
「ここから先は、これまでとは比べ物にならないほど、困難で凄惨な道となるでしょう。命の保証など、誰一人としてできません」
ニギハヤヒは言葉を一度区切り、集まった者たちの顔を一人一人、確かめるように見つめた。その瞳には、彼らの命を戦火へ投じることへの痛切な覚悟と、それでも退けないという退路を断った意志が宿っている。
「ですから……まずは皆さんの意見に耳を傾け、その覚悟を確かめたい。その上で、あの地獄へ赴く最高の『選抜隊』を結成したいと考えています。――皆さんの声を、私に聞かせてください」
満天の星々と巨大な神像たちが見守る中、
ニギハヤヒが投げかけた問いは、無音の宇宙空間に冷たく、重く沈殿していった。
誰一人として、すぐには口を開かない。ここにいる全員が、これから向かう場所がただの戦場ではなく、生きて帰ることの叶わぬかもしれない「神話の墓場」であることを理解していたからだ。
静寂を破ったのは、腕を組んだまま、神像の影から一歩踏み出したリーだった。その冷徹な双眸には、恐怖など微塵も浮かんでいない。
「ニギハヤヒ。テポーンの居城を叩くのは当然の着地点だが……問題はその城の『防衛線』だ。奴がただ大人しく首を洗って待っているとは思えないが?」
その鋭い指摘に、ニギハヤヒは厳かに頷いた。
「ええ、その通りです。特定された奴の居城の周囲には、すでに禍々しい結界が張られており、さらにはテポーンが従える凶悪な眷属が巣食っています。……かつて大英雄の行く手を阻んだとされる伝説の怪物、十二の試練が一柱――【ヒドラー】。あの九つの頭を持つ不死身の毒蛇が、居城の門番として立ち塞がっています。」
「ヒドラー……ッ!」
その名が放たれた瞬間、ヘレウクレスの岩のような巨体が、明確な殺気を孕んでピクリと揺れた。彼から発せられる闘気が、無音の空間をビリビリと震わせる。
「ヒドラーって、アレか? ギリシャ神話の『十二の試練』に出てくる蛇のバケモン……」
村正が、引きつった顔で隣の武を見上げた。
「ああ。神話の伝承において、アレはテポーンの落とし子だ」
武は盾の裏で拳を強く握り締めながら、自らの記憶にある知識を冷徹に引きずり出す。
「伝承通りなら、大英雄は二番目の試練として従者と共闘し、ヒドラーに勝利を収めた。だが、『他者の助けを借りた』という理由で神々から失格の烙印を押され、試練としてカウントされなかったはずだ」
武の正確な神話の解説。しかし、それを聞いたヘレウクレスは、悔しげにギリッと奥歯を噛み鳴らした。
「……いや。俺はまだ神々が生きている時代に、たった一人で、単独であの毒蛇に挑んだ。だが……あの不死身の再生力と猛毒を前に、何度血反吐を吐いて引き返すことを余儀なくされたことか……ッ!」
(…………単独で挑んで、しかも生きて帰ってきたのか……!)
村正は心の中で盛大にツッコミを入れた。
触れるだけで肉体を腐らせる致死の猛毒を持つ巨大な九頭蛇に、たった一人で突撃し、しかも撤退を繰り返しながら生き延びている。その事実だけで、目の前の男の耐久力が神話の枠すらぶち壊していることがよく分かった。
「他の試練は、すべてこの身体ひとつで首を絞め上げて突破することができたというのに……! なぜあいつだけは……! くそっ!」
ヘレウクレスは己の無力さを呪うように、丸太のような太い両腕をギリギリと力ませた。
(いや待て待て待て!)
村正の脳内で、さらなる強烈なツッコミの嵐が吹き荒れる。
(ヒドラーの猛毒を塗った矢を使わずに、他の化け物じみた試練を全部『素手』で絞め殺して突破したの!? 史実の何倍ゴリラなんだよ! 純度100パーセントの脳筋だったよこの英雄……!)
呆れ果てる村正を他所に、ヘレウクレスは顔を上げ、かつてないほどの凄まじい決意の炎を瞳に宿した。
彼の全身から、物理的な熱を伴うほどのすさまじい覇気と闘志が、陽炎のように立ち上り始める。
「だが、俺の孤独な戦いを裁定する神々はもういない。今回ばかりは、かつての己の拘りという『屈辱』を喜んで受け入れ……俺は仲間と共に、あの忌まわしきヒドラーを必ずや討伐してみせる!」
ゴォォォォォッ!! と、ヘレウクレスの背後に目に見えない熱波が吹き荒れる。
彼は、その燃えたぎる瞳で村正と武を真っ直ぐに指差した。
「よって俺は、この死地へ赴く部隊に、外界の勇士である二人を推薦するッ!!」
「ちょっとぉ!!」
たまらず声を上げたのは、すぐそばにいたロッキルだった。彼女は亜麻色の尻尾の毛をボワッと逆立て、両手で顔を仰ぎながら猛烈に抗議する。
「暑い、暑い、暑すぎるから!! 気合い入るのは勝手だけど、少しはその無駄な熱気を冷ましてよね!!」
「あ……ああ、すまない」
ロッキルの剣幕に気圧されたのか、先ほどまでの世界を焼き尽くさんばかりの覇気が、風船がしぼむようにシュンッと消え去った。ヘレウクレスはバツが悪そうに頭を掻き、巨体を小さく丸める。
「全く……お前という奴は……」
一瞬にして粉砕されたシリアスな空気に、リーはこめかみを揉みながら、深い、深いため息を星の海へと吐き出した。
しかし、彼が再び顔を上げた時、その瞳からは先ほどの呆れ色は完全に消え去り、戦場を見極める冷徹な剣士の鋭い光が宿っていた。
「だが――この外界の勇士二人を部隊に加えるという点に関しては、俺も推薦に賛同しよう」
凛としたリーの声が、白銀の雲海に静かに響き渡る。
予想外の援護射撃に、村正と武は小さく息を呑んで彼を見つめた。
「理由としては、まず戦術的な欠陥の補強だ。俺と、そこの熱苦しい馬鹿は、こと戦闘……こと『破壊』という面においては他を凌駕していると自負している。だが、その反面『防御』という概念においてはどうしても手薄になる」
リーは視線を流し、武が左手に握る盾をスッと見定めた。
「だからこそ、あらゆる理不尽を凌ぎきる強固な『盾』を扱える彼が必要だ。そして――」
次に、リーの鋭い眼光が村正へと向けられる。その視線は、村正の奥底に眠る規格外の業を測るかのようだった。
「刀鍛冶である彼の能力は、未だ全貌が見えない。だが……分身体とはいえ、あの邪神が展開した絶対の『法則』を力技で叩き割り、確かな手傷を負わせた。その異常なまでの突破力は、この死地において必ずや決定的な戦力となる」
理路整然とした、あまりにも的確な戦力分析。
だが、リーが語る彼らの真の価値は、そこから先だった。
「そして、何より――」
リーは言葉を区切り、村正と武を交互に見つめた。氷のように冷たかった彼の双眸に、ほんのわずかな、しかし確かな『熱』が宿る。
「彼らの眼には、確固たる意志がある。絶対に退けない理由と、自らの命に代えても『守りたいもの』がある。剣となり盾となり、互いが互いを守り、守られる……そんな強固な結びつきを持った存在だ」
それは、神の座という孤独な重圧を背負うリーだからこそ気付ける、彼らの最大の武器だった。
神話の怪物にも、絶望的な予言にも決して折れない、人間という脆くも強靭な生き物の本質。
「人は、守りたいものがある奴ほど強い。」
星屑の光を背に受けながら、リーは短く、しかし絶対的な確信を込めて言い放った。
「だからこそ、俺もこの二人を推薦する。……あの地獄を生き抜くには、彼らのような『折れない心』が不可欠だ」
その言葉は、どんな神の祝福よりも重く、村正と武の胸の奥底に熱く響き渡った。
静まり返った神域で、少年たちは歴戦の勇士たちから、掛けられた言葉は単なる戦力としてだけでなく、かけがえのない『戦友』として、確かに認められた証だった。
リーの熱を秘めた言葉の余韻が雲海に溶けていく中、ニギハヤヒが微かに眉をひそめ、静かに口を開いた。
「……待ってください、リー。今のその話し方。まるで、あなた自身もこの死地に参戦するかのような言い方ですね」
「当然だ」
リーは表情一つ変えず、絶対の理を説くように淡々と、しかし力強く応じた。
「それが、彼らを死地へと『推薦する者』の負うべき責任というものだ。若者を矢面に推すだけ推しておいて、自分は安全な場所から偉そうに野次を飛ばすだけの、腐った元老どもと一緒にするな」
星明かりに照らされた彼の横顔には、自らの血を流すことを厭わない武人としての確固たる矜持と、決して揺るがない覚悟が刻まれていた。
その毅然とした立ち振る舞いに、村正と武が思わず息を呑んだ、その時だった。
「あの……」
ニギハヤヒの背後に落ちていた影から、鈴の音のように細く、どこか儚げな声が紡ぎ出された。
おずおずと、しかし確かな意思を持って歩み出たのは、死の気配と深い慈愛を纏う少女――ミクトルだった。彼女は胸の前で両手を固く組み、祈るような、潤んだ瞳で皆を見回す。
「私も……皆さんと一緒に、行ってもいいですか?」
「ミクトル……?」
予想外の志願に、ニギハヤヒが目を見開く。
「どれほど世界を憎み、天地を呪う恐ろしい邪神であったとしても……彼もまた、魂を持つ一つの『命』に変わりはありません。……狂気に囚われたその魂を、せめて最後は穏やかに慰め、正しき輪廻へと送り出してあげること。それこそが、私の背負うべき使命だと思うのです」
世界を壊した怨敵に対してすら向けられる、底無しの慈悲。
そのあまりにも深く純粋な優しさに当てられ、憎悪と闘気で荒立っていたヘブドマスの空気が、ふわりと温かく凪いでいく。
ニギハヤヒは、困ったような、けれど愛おしい我が子を見るような優しい眼差しを彼女へと向けた。
「ミクトル。あなたのその意見はごもっともです。私は決して、その優しさを否定はしません」
ニギハヤヒはミクトルの前に静かに歩み寄り、その華奢な肩を包み込むように手を置いた。
「むしろ、いかなる魂にも等しく救済をもたらそうとするその寛大な対応こそ、いかにも『あなたらしい』と誇りにすら思います。……ですが」
一拍の間の後、ニギハヤヒの瞳に、再び『聖都の指導者』としての峻厳な理性が宿った。
「これ以上、この聖都から強大な力を持つ勇士を離すわけにはいかないのです。主力をテポーンの居城へと向かわせる間、残されたこの街の防衛線はどうしても手薄になってしまう。我々の今回の目的は、あくまで【神血の種】の奪還に他なりません」
「……っ」
「あなたのその尊い思いは……いずれ必ず訪れるであろう、あなた自身の『真の使命』の時まで、どうかその胸の奥底に大切に取っておいてください」
決して感情に流されない、理にかなった諭しの言葉。
しかし、そこには彼女の身を何よりも案じる確かな温もりがあった。ミクトルは少しだけ悲しそうに伏し目がちになった後、自らのわがままを飲み込むように、静かに、こくりと頷いた。
ミクトルの優しき懇願を胸に秘め、ニギハヤヒは静かに息を吸い込み、果てしない星空へと顔を向けた。
その澄んだ瞳には、死地へ赴く四人の勇士たちの姿が真っ直ぐに映し出されている。
「……顔触れは、決まりましたね」
無音の神域に、ニギハヤヒの荘厳な声が波紋のように広がっていく。
それは単なる部隊発表ではない。星々に新たな神話を刻み込むための、美しくも重い『叙事詩』の幕開けだった。
「災いを砕きし、不屈の『剛勇』(ヘレウクレス)。
絶対の死線を照らす万能の『剣閃』(リー)。
理不尽なる運命の嵐を弾き返す、堅牢なる『盾』(武)。
そして――神の法則すらも両断する、奇跡の『鉄』(村正)。」
ニギハヤヒはゆっくりと右手を掲げ、彼らを祝福するように微笑んだ。
「この四名こそが、深淵の闇を切り裂き、奪われし光を奪還する【新生の尖兵】となります。どうか、あなた方の往く道に、星々の加護があらんことを」
圧倒的なスケールで紡がれたその詩的な宣言に、村正の背筋がブルッと震えた。
隣の武も、静かに、しかし確かな決意を持って盾を構え直している。ヘレウクレスは満足げに腕を組み、リーは静かに目を伏せた。
完璧な、あまりにも完璧な出陣の儀式。
部隊の士気は最高潮に達し、あとは決戦の地へ向けて飛び立つのみ――。
「よし! ならば善は急げだ!」
ヘレウクレスが豪快に笑い声を上げ、勢いよく振り返った。その視線の先には、亜麻色の尻尾を揺らす獣人の少女がいる。
「さぁロッキル! 俺たちをあの邪神の城まで頼むぞ! お前の神速の運搬能力が……」
「は? 何言ってるの?」
完璧だった空気を、ロッキルの一言が氷点下まで凍りつかせた。
彼女は「頭大丈夫?」と言わんばかりに、呆れ果てた顔で大英雄を見上げている。
「私、テポーンの居城の場所なんて全く知らないわよ?」
「………………は?」
ヘレウクレスの巨体が、ピタッと硬直した。
「いや、だってそうじゃない! 行ったことも見たこともない場所へ、どうやって走って送り届けろって言うのよ! 私の力は万能のカーナビじゃないの!」
「な、なんだって……!?」
大英雄の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
「じゃ、じゃあ一体誰が俺たちをあの地獄の門まで運ぶというのだ!? このままでは、出陣の士気が上がったままここで立ち往生という、神話史上最も恥ずかしい事態に……!」
ワタワタと狼狽するヘレウクレスと、やれやれと肩をすくめるロッキル、そして「締まらねぇなぁ」と苦笑いする村正。
そんな彼らのドタバタ劇を静かに見守っていたニギハヤヒが、ふっと柔らかな笑みをこぼし、一歩前に進み出た。
「ご安心を。……今回は、私が運びましょう」
「え? ニギハヤヒが?」
予想外の申し出に、ヘレウクレスが目を丸くして巨体を揺らした。
「ええ。八咫烏と視覚を共有し、居城の正確な座標を把握しているのは、現状私だけですから」
ニギハヤヒは優雅に白い袖を翻すと、その白魚のように細く美しい指先を、星々が瞬く虚空へと静かに向けた。
「さぁ、勇士たちよ。武器を取り、気を引き締めてください。……地獄の門の目前まで、あなた方を一瞬でお連れします」
その静かな、しかし絶対的な神威を伴う声を聞き、村正は「なるほど」と口角を吊り上げた。
「そうか。確かニギハヤヒって、一部の地域じゃ『空の神様』としても信仰されてるんだったな」
「ああ」
隣で盾を構え直した武が、己の脳内に刻まれた神話の知識を淀みなく引きずり出す。
「日本神話において、彼は天照大御神の命を受け、『天磐舟』という天駆ける船に乗って大和――今の奈良県に降臨したとされている。そこで現地の豪族と婚姻を結び、日本国の基礎を最初に切り拓いたという伝承があるからな」
神話の英雄が、その伝承通りの力を振るおうとしている。
武の解説を聞き、村正は胸の奥で少年のような高揚感が跳ね回るのを抑えきれなかった。
「となると、俺たちを運ぶ手段はやっぱりーー」
村正の期待に満ちた視線の先で、ニギハヤヒはスッと目を閉じ、天地を開闢するかのような、荘厳で古き呪言を紡ぎ出した。
「――招ぎ降ろす。神代の御柱、虚空を穿つ天の御船よ」
澄み渡る声が、無音の宇宙空間に波紋のように広がっていく。
「天磐舟、天磐樟船に乗りて、悠久なる天海を漕ぎ渡れ――顕現せよ」
ゴゴゴゴゴォォォォッ……!!
その祝詞が終わるや否や、足元の白銀の雲海が、まるで巨大な渦潮のように激しくうねり始めた。
空間そのものが軋むような重低音が鳴り響き、星屑の光が一点に収束していく。突風が吹き荒れ、村正と武は思わず腕で顔を覆った。
「うおっ……! な、なんだ!?」
吹き荒れる風の向こう側――割れた雲海の中から、途方もなく巨大な影がゆっくりと浮上してくる。
それは、硬質で神々しい岩肌と、神気を帯びた巨木によって組み上げられた、文字通りの『空飛ぶ巨大船』だった。船体は濃密な乳白色の雲を纏い、まるで深海から浮上する白鯨のような圧倒的な威容を誇っている。
帆はない。ただ、船そのものが放つ凄まじい神の力が、重力という概念を完全にねじ伏せて虚空に停泊していた。
「すごいな……これが空飛ぶ船か……」
村正は、首が痛くなるほどに見上げる巨大な船体を前に、ただ呆然と呟くことしかできなかった。武もまた、己の知識の範疇を軽々と超えた神話の具現化に、息を呑んで立ち尽くしている。
雲を纏う巨大船を背に、ニギハヤヒはゆっくりと振り返った。
その微笑みは、聖都の指導者としての厳しさではなく、天上より降り立った『神』そのものの、優雅で底知れぬ慈愛に満ちていた。
「どうぞ。死地への旅路、この私が謹んでお運びしますよ」
星の海に浮かぶ神の船。
最強の布陣と最高の移動手段を得た四人の勇士たちは、ついに、邪神の待つ絶望の居城へとその歩みを進めるのだった。




